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2011年6月15日水曜日

主はうそをつかない確かなお方です。

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについてきなさい。(新約聖書 マルコ8:34)

ついには、私たちのキリスト者生活を判断する終わりの時がくるでしょう。だから以下に述べることが、聖霊の働き、聖霊の関心・勢力・活動であります。すなわち人々を入り口にまで連れて来て、中にまで入らせるだけでなく、その入り口は万物が存在する入り口の向こう側に道を開くものだけであることを知らしめることにあるということです。入り口だけではなく、入り口の向こうにあるものが大切なのです。そしてそれはこの再生の働きであり、創造される主イエス様の似姿にしたがって新しくされるということです。

主のご目的が支配するのです。主が重要視し目論み明らかにされるのは、すべてのうちにあるキリストです。キリストがその広大なすべてであります。「キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。」がコロサイ3:11の結びの節です。私たちの救い、最初の救いの時よりももっと満ち満ちているキリストであります。入り口は基本です。しかし、そこへ導かれることは、とにかく中に入って行くことが判断されるのです。

キリストご自身はご在世当時、人々がその入り口に入り、まっすぐな狭い道に入って行く時、困難に会うということを知らしめるのにへまをされることはなかったのです。現に彼らは困難に会ったのです。今やそのことは言うのが大変怖いことのように聞こえるかもしれません、特に入り口の内側に入って間もない信じたばかりのクリスチャンにとってはそうなのですが、それについては完全にはっきりしていることであります。主イエス様はこのことについて誰をも決して騙されませんでした、全然騙されなかったのです。

主は人々に「あとについて行くこと」は、その時言われたように、困難や苦痛や迫害・試練が一生つきまとうことに巻き込まれることだと知らされたのです。代価があり、それも大きな代価です。数々の代償がこの生活においては疑いもなくあり、永遠のための大きな代償があるのに対して、このことは生まれながらの人間であったらとても容易ではないことがわかります。聖霊のこの働きは肉にとっては(訳注:生まれながらの人間にとっては)強烈で厳しく大変な試練であります。

そのことについて誤解しないでください。聖霊ご自身がこの働きを完遂しなければならないのであり、全エネルギーを要されるだろうということです。本当にそうなのです。そこで主イエス様はこのことについて私たちをいささかの疑惑であってもそのうちに放置したままには決してなさらなかったのであります。

(今日の箇所は God's Supreme Interest in Man - Chapter 3 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003223.htmlです。今日の箇所は3/16と内容がだぶっていますが、訳は今日の時点での訳にしました。読者の方は比較して、どちらの訳の方を好まれるでしょうか。一人が訳しても、こんなに日によってちがうとは私の訳は当てになりませんね。)

2011年3月16日水曜日

造り主におゆだねします

ヒヤシンス 立ちたる姿 りりしいぞ
互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。(新約聖書 コロサイ3:9~10)

キリストご自身は、この地上におられた時、人々に(救いの)戸口から入ったり、まっすぐで狭い道に入る時、困惑するということを必ず知らされました。現に人々は困惑したのです。今そのことを言うのは大変恐ろしいことのように聞こえますが、特に戸の内側に入ってまだ日の浅い信者にとってですが、しかしそれは完全にはっきりしていることであります。主イエス様は決して誰であろうとだまそうとはなさらなかったのです。全然それとは違いました。

主イエス様は人々に、当時示されたように、「主に従う」ことは困難と苦しみと迫害と試みに、そして一生涯、それらに巻き込まれることだということを知らされたのです。ここには犠牲があります。大変な犠牲です。そして、代償があるということ、というのは疑いもなくこの生活には代償があり、永遠にとてつもない代償があることになりますが、これは生まれながらの(新生していない)人にとってはいかなる方法によっても容易ではないと私たちは知るのです。

この聖霊の働きは厳しいもので肉なる人の性質にとっては極めて試みのあることです。ただ誤解しないでください。聖霊ご自身がこの働きを完遂されるのに全精力を費やされるということであります。本当にその通りなのです。だから主イエス様は私たちを置き去りにされなかったということは疑う余地のないことです。

しかし注意してください。 嬉しいことに、使徒パウロはそのことを次のように指摘しているのです。それはまことに経験上真実であるからです。それは新しい人とは更新されつつある人だということです。記憶にとどめてください。最初に「脱ぎ捨てること」と「着る」ことの的確で厳密な処置がありましたが、今や継続されるその働きは、わずか一日の一瞬の一回きりの行為ではなく、私たちのうちに継続するものだということです。

新しい人は日々更新されるのであります。そしてその過程は最後まで続くものであります。私たちがもうこれ以上続けることが認められなくなるまでは、すなわち終止符を打つに至るまでは止むことがないのです。

(今日の箇所は God's Supreme Interest in Man - Chapter 3 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003096.htmlです。スパークス氏はこのコロサイ人の手紙の聖句の中には聖霊なる神様の名前が特に書き留められていないが、この人を造り主の形に似せて造り上げる働きこそ聖霊なる神様の働きであると言及しています。一方、「古い人」の例として、サウル王を、「新しい人」の例としてダビデ王をそれぞれ旧約聖書中のサムエル記を資料としてあげています。そして二人の差は主の御心を喜んで行おうとするか、行おうとしないかの違いであったと指摘しています。)