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2011年11月9日水曜日

御霊によって心を裂いていただきましょう

焦点を違えました。ざくろの弾けたところを撮りたかったのです
かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。(新約聖書 ローマ2:29)

知性や感情について真理であることは意志の領域においても真理であります。多くの人々にとって、我が道を行く意志があります。人々は地位を得、それを粘り強 く固持し、死守します。彼らはしっかりと掴み、全く手放すことはできません。彼らはみことばによって自らの地位を支えるでしょうし、みことばにまさる「啓示」を用いてまで支えることでしょう。その彼らの意志があらゆる混乱の原因であります。彼らの生活に対する神の全計画を遅らせ後退させる原因はまさしくそこにあります。すなわち彼らの選択、彼らの地位、彼らのやり方、彼らの生まれながらの強い自我、こういうものは決して壊されて来なかったのです。だからそこでこそ割礼が行われねばならないのです。
 割礼は実に様々な方法に適用されるのです。

十字架は、霊的なその割礼の道具として、この自我に段々さらに深く適用されねばなりません。なぜなら自我には終着駅がないようにみえるからです。しかしそれは痛みを伴う、暗い側面です。別の面では何が起こりますか。それはキリストのためになされる機会ではないのですか。本当の子孫、キリストの子孫が成長し、ますますはっきりするようになります。私たちがこれまでずっと考察してきた性格、すなわち知性や感情や意志の強さと正反対のものは柔和です。キリストは言われました。「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」(マタイ11:29)このことをあくまでも追求しなさい。そうすれば、あなたは主のご存在のまさしく深みのうちに完全に異なったものがあったことを必ず認識できることでしょう。

私はこれまで、私たちが、自己表現、自己憐憫、自意識、自己満足など無数の形のうちにあるこの自己原理の全領域を数え上げることは不可能だと言ってきまし た。クリスチャン生活や主にささげることにおいてさえも、私たちは、他の人々がどれだけ献身し、どれだけ謙遜であるかを知れば知るほど幸せなのです。そしてそれが自我です。可愛そうな(こんなことばを使ってもいいのでしょうか)四六時中立ち上ってくる悪臭を放ってやまない自我であります。と言いますのは、 神の本当の子どもは自分を忘れます。そしていかなる道にあっても自意識がないのです。もし他の人々が神の子について何か良いことを指摘しても、彼らはそのことを了解しなかったでしょうし、そのことに気づいていなかったのです。

彼らは誰かが自分たちについて何か良いことを言ったとしたらびっくりするでしょう。彼らはそのことを意識していないのです。そして他方で人々が批判し、失敗を指摘したら、彼らは次のように言うだけです。「そうです。私にはわかります。私が主から離れたのです。」( “Yes, I know: I had that out with the Lord,”)とか「私は今すぐそのことを主の前に出します。私はそのことについて正直でありたいです」( “I have got that before the Lord right now. I am not deceiving myself about that.” )これが天にある本当の子どもなのです。

そういうわけで、私たちは続けることができればいいのです。それが割礼の意味です。その光の中で、本当の意味、本当の原則が、一人のパリサイ人が、すなわちアブラハムの子が「私は他のだれよりもいい」と言うこととか、誰もが見たり聞いたりするように長い祈りをすることを評価するのです。アブラハムの子ども!あなたは主が彼らに言われたことを全部覚えているでしょう。ああ、彼らは何と的がはずれていたことでしょう。しかし、私たちは批判したり、非難しないようにしましょう。それはまさしく私たちを探ることです。そうではないですか。パウロは割礼は何も意味がない、無割礼も何も意味がない、(大事なのは)新しい創造だと言っています。本当の割礼は肉のものではなく、心に対するものです。主は私たちに切り裂かれた心を下さいます。そして究極的にはこの(自我からの)分離が追求されるようにと恵みを下さるのです。

(今日の箇所は The Israel of God - Chapter 5 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003439.htmlです。英文を示しましたところは訳に自信のないところです。久しぶりにオースティン・スパークス氏の文章に接しました。この視点で私たちは別のブログ「泉あるところⅡ」で紹介しているヴォーリスさんを見ることも必要なのではないでしょうか。)

2011年10月29日土曜日

万物は御子にあって創造されています

今日も日本は快晴でした。用水路の空き地を利用した三層の花の展開です。
すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。(新約聖書 ローマ11:36)

 聖書において二つの契約、新約と旧約によってあらわされているような二つの区分はないということ、ましてや旧約聖書が時代によって細分されていてもその区分さえないということは明確にする必要があります。確かに表現方式において二つあるいはそれ以上のものがありますが、聖書全巻をとおして初めから終わりまでたった一つのことが述べられているに過ぎないのです。

 聖書を摂理によって扱い、異なった時代の異なった特徴を強調する私たちの性向は、まるで類型論や象徴論に夢中になりうるかのように機械的に注意させる結果にこれまでなったかもしれません。だから、私は次のことをもう一度強調したいのです。すなわち神はこういう様々な表現形式によって初めから終わりまで一つの考えによって、しかもただ一つの考えによって行動されるということです。万物は、一貫して、あらゆる時代において、神の御子をあらわし、神の御子に従属しているということです。

 神はご自身の人格や、また贖いや完全な働きの真実さをもって万物を統治されます。それが、 聖書の最初の巻から終わりまでの一つのご人格であり、一つのお働きなのであります。旧約聖書から新約聖書への変化は簡潔であり、間接的なものから直接的なものへの変化に過ぎないのです。また、象徴的なものから象徴されるものへの変化、そして一時的な表現から霊的な真実在への変化であります。それがすべてです。目的や対象の変化ではありません。また基盤や土台の変化でもありません。それはいかなる仕方にあっても原則の変化をあらわすものではありません。

 おそらくあなたがたはそのことを全部知っていると感じているでしょう。しかし、私たちのうちの何人かが今まで認識したことよりもはるかに多くのものがあるのです。たとえばあらゆる神の家長に対するお取り扱いはご自身があなたや私に対して取り扱われるのと同様に原則としてご自身の御子の基盤の上に基づいたことでした。旧約聖書におけるイスラエルは私たちがこの摂理のうちにあるのと同様に神の御子の基盤の上で取り扱われていました。神は決していかなる時も、またいかなる手段によっても、ご自身の御子以外のいかなる基盤の上に立って働かれたことがないのです。

 神の創造的な活動はご自身の御子の地盤の上にあったのです。「御子のうちに、御子を通して、御子によって、御子に向かって、万物は創造されました」(コロサイ 1:16)その時から万物はその基盤の上に始まりましたし、将来キリストにおいて完成されるのです。どんな手段によろうとも、どんな方法によろうとも、神は 働かれ、ご自身の基盤は常に同じだったのです。そして来るべき時代においてその基盤は変わることがないのです。それはキリストという土台です。私たちがこのことを記憶し、そのことについて全くはっきりした態度を取ることは大変重要であります。

(今日の箇所は The Israel of God - Chapter 5 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003428.htmlです。)