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2011年6月25日土曜日

主が新しく生まれた者のすべてです。

義妹の家族は花を愛する、この菖蒲も白い菖蒲群の一部である。
わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。(新約聖書 黙示22:13)

私たちは私たちの持っているすべての枠組み、計画、準備、主に対するプログラムの数々を戻し、主との密やかな場所において、主との本当の生き生きとした霊の結びつきがもたらす新たな価値へと進むべきです。それは目的が私たちから始まるのではなく、たとえば私たちの考えや意欲や意志によらず、神様が始められるようになることであり、私たちのうちに神様からのものであるということがわかるからです。

主が私たちをご覧になる時、主はご自分がなしておられる霊的な感覚をお持ちになり、それを行なわれるのは「同じようである」ことでしょう。と言いますのは、神様はご自分が目的についてそうであるのと同じように方法についても細かい配慮をされるからです。問題は神様のために事を行なうということではなく、神様が行なわれるということです。それが、なぜ、例の使徒が新しく造られた者についての開陳を述べる重要な節に次のことを加えるのかという理由であります。その時、使徒は言うのです。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。しかし、これらのことはすべて、神から出ているのです。」と。新しく造られた者にとってはすべてが神様から出ているのです。

神様の働きのうちに一人の人がいます。神様のすべての働きがゆだねられている一人の人です。一人の人、たった一人の人がいます。神様のすべての働きはその人と栄光のうちに緊密に結びついています。私たちにとって大切なことはキリストがどういうお方であるかを知ることです。それはキリストがどなたであるかだけでなく(どんなにキリストが神様であるかを知ることが大切であっても)キリストがどういうお方か、すなわちキリストはすべてを包含する新しく造られた人であるということです。言い換えれば、キリストは今や神様が人である方、十分、完全で、決定的かつ究極的に神様の考えを表しておられるということです。

新しく造られた者に関するかぎり、イエス・キリストを離れて神様の表現はありません。神様の思い、意志、意欲、働きはキリストにあって完成されるのです。イエス・キリストは最初であり、最後であり、その方を除いては達し得ないのです。

(キリストは新しく造られた者の代表であり、包含者であります。あなたも私も新しく造られた者となり、それに準じて働くためには神様の思いや神様の意志、神様の意欲 、神様の働きに応じて主イエス・キリストとのその結びつきに入り、主がどういう方であるかによって生きる方法とならねばなりません。私たちの古き者がわきに置かれ、そして、新しいキリストによる人が取って代わらねばならないのです。)

(今日の箇所は The Meaning of Divine Life - Chapter 3 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003233.htmlです。)

2011年3月12日土曜日

父なる神様を恐れ、従うまことの平安

庭のクリスマス・ローズ 2011.3.10
それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。(新約聖書 ヨハネ17:21)

それでは、キリストとの結びつきとはどんなこと(を言うの)ですか。それは新しく創造された方である主、つまり新しく創造された子である主イエス様との結びつきです。いのちの御霊により新しく造られた者のいのちを生きる主との結びつきです。

私たちの主題はキリストとの結びつきの性質と意義にあります。とこしえの御霊による新創造のうちにある新しく創造された人の子である主との結びつきです。その結びつきの意義は何でしょうか。それはそのような結びつきによって初めて神様の働きがなされるのだということです。父なる神様との関わりの中で主が支配されることがそのまま私たちを支配するのです。何事もこの結びつきを覚えることなしにはなされません。

(だから)キリストとの結びつきは神のために行動を起こすことや、また神のために約束することではなく、 ただ良き意志※があることであります。私たちが(自分の考えで)主の栄光のためになさねばならないと理解することが奉仕の基準ではありません。

多くのことが、神のためになされねばならないと判断される時、単純だが、正直で誠実な心の判断によって手がけられます。たとえば悲劇的な事態が行動を求めるのです。私たちはその事態に対応する手段を持っていると、それを主のために行うのです。そんな風にして広範囲にして様々な企てがその基盤の上で着手されます。ところが主イエス様はこのヨハネ5章で、そうではないとおっしゃいます。

主が言われる通り、決してそうではないのです。主は事態の目に見える必要によって支配されません。主はご自身の上におこる事柄の衝撃によって何か手がければならないとする考えに支配されるお方ではありません。主にとっては(父なる)神様がなさること、特定の時に神様がなされることが問題なのです。

一つの目的を持って神様は様々な時に様々なことをなされます。時々違った強調点がありますが、キリストと本当につながっている人はその特別な時にキリストが直接事をなしてくださることに支配されねばなりません。「父がなさることは何でも、子も同様に行うのです」(ヨハネ5:19)神様の働きとの関わりで霊的に認識するすべての問題はこのつながりによって結ばれているのです。

神様がなさることが問題であり、神様が目的を実現されるためにキリストにあって主とともに(私たちが)いのちのつながりをもっているかどうかが問題であるのです。

(今日の訳出は The Meaning of Divine Life - Chapter 3 抜粋引用訳であるが、地震発生とともに頻発する余震が続いており、どうしても気になり訳出に手間取り、日を越えてしまった。文章そのものは主イエス様が決して自ら行動されるお方でなく、いつも父なる神様に従われたように私たちも主イエス様のお言葉に信頼し従うことが主題となっていた。※は原文http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003070.htmlによるとIt is not a matter of action, or of understanding for God, however well intentionedとなっているが、intentionの内容がはっきりしない。数頁前に「主は私たちができないことをするようにと期待されているのではありません、そして私たちは自分の力で決して生きられないのです。だから、主が求められていることは私たちの態度・心持ちであり、その心持ちとは主を信頼することであります。それがすべての始まりです」という箇所がある。このお方にはいのちがあり、さらに子なるイエス様には主を受け入れる者にいのちを与える力が、父なる神様によって与えられている。地震の被害に遭われたお一人お一人のうちに主イエス様のこの上から与えられるいのちの慰めが与えられますようにとお祈りします。)

2011年2月24日木曜日

神の国にはいりたい

梅の花 汝のいのちの きよらかさ (彦根城大手門橋付近の今朝の梅) 
まことに、まことに、あなたに告げます。人は水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。(新約聖書 ヨハネ3:5)

どんな人も未だかつて「自分自身の力」で神の国に入った者はいません。そのことは人々がやりとげる決断や決意の力によりすがればすがるほど、それだけ神の国に入るため自ら決定したり決意したりするその意志が求められているのです。(しかし)それはなされ得るものではありません。

そのことと結びついて多くの誤解がこれまでもなされて来ました。そして完全に間違った立場を多くの人々は取るようになってしまったのです。なぜなら努力がその線に沿ってなされ、大多数の人々が自分自身の理性や感情そして意志を、まるでそれらが新しく生まれ変われるかのように働かせるように求められて来たからです。

このようにキリスト教に関心を持ち活動することは同じことを意味しますが、(神の)国に入ることはそれとは全く別のことです。大勢の善良な人々はキリスト教に興味を持ち、活動もします。それらの人々はクリスチャンの生活基準やその教えを見て、もしそれが適用され得るなら、世界はどんなに変わることだろうかと思ったりしました。

そこで彼らはキリスト教に熱心になり、その結果自分たちは神の国に入ったと思い込んできました。けれども全然そうじゃないのです!皆さんは(神の)国に入らずともキリスト教にすっかり関心を持つことができるのです。

このことが主イエス様が実際にまた別の簡潔なお言葉でニコデモに言われたことであります。(冒頭のことばはイエス様がニコデモに言われたことばであります)(結局、神の)国に入る唯一の道は私たちがイエス・キリストを信じ、賜物としての神のいのちを受け取ることによって(可能)なのです。そしてそれが新しく生まれた者となった者の新しい原則となります。すなわち(このいのちにより)万物が始まり完遂されるという原則であります。そのいのちは新しく生まれた者の性質と力のすべてを宿すのです。こうして私たちは神の国と呼ばれる国に入ることになるのです。

(今日の箇所は The Meaning of Divine Life - Chapter 1 である。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003054.htmlである。火曜日叔母が亡くなり、葬儀に再び滋賀に帰った。愛する人の死ほど人を厳粛にさせる出来事はない。仏式の葬儀では人のいのちの儚さが強調され、念仏が極楽浄土に行く道だと勧められた。念仏により神の国にはいることができればそれは素晴らしいと思う。しかし果たしてそうなのだろうか。これに対して、聖書は「人は主イエス様、私たちの罪の身代わりに死なれ三日後によみがえられたイエス様を信ずる時に、永遠のいのちを賜物として受け取り、神の国にはいることができる。」と主の十字架の死よりの復活を対峙する。主の復活は単なる願望ではない。恵みの事実である。ここに永生の根拠がある。)