2011年2月24日木曜日

神の国にはいりたい

梅の花 汝のいのちの きよらかさ (彦根城大手門橋付近の今朝の梅) 
まことに、まことに、あなたに告げます。人は水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。(新約聖書 ヨハネ3:5)

どんな人も未だかつて「自分自身の力」で神の国に入った者はいません。そのことは人々がやりとげる決断や決意の力によりすがればすがるほど、それだけ神の国に入るため自ら決定したり決意したりするその意志が求められているのです。(しかし)それはなされ得るものではありません。

そのことと結びついて多くの誤解がこれまでもなされて来ました。そして完全に間違った立場を多くの人々は取るようになってしまったのです。なぜなら努力がその線に沿ってなされ、大多数の人々が自分自身の理性や感情そして意志を、まるでそれらが新しく生まれ変われるかのように働かせるように求められて来たからです。

このようにキリスト教に関心を持ち活動することは同じことを意味しますが、(神の)国に入ることはそれとは全く別のことです。大勢の善良な人々はキリスト教に興味を持ち、活動もします。それらの人々はクリスチャンの生活基準やその教えを見て、もしそれが適用され得るなら、世界はどんなに変わることだろうかと思ったりしました。

そこで彼らはキリスト教に熱心になり、その結果自分たちは神の国に入ったと思い込んできました。けれども全然そうじゃないのです!皆さんは(神の)国に入らずともキリスト教にすっかり関心を持つことができるのです。

このことが主イエス様が実際にまた別の簡潔なお言葉でニコデモに言われたことであります。(冒頭のことばはイエス様がニコデモに言われたことばであります)(結局、神の)国に入る唯一の道は私たちがイエス・キリストを信じ、賜物としての神のいのちを受け取ることによって(可能)なのです。そしてそれが新しく生まれた者となった者の新しい原則となります。すなわち(このいのちにより)万物が始まり完遂されるという原則であります。そのいのちは新しく生まれた者の性質と力のすべてを宿すのです。こうして私たちは神の国と呼ばれる国に入ることになるのです。

(今日の箇所は The Meaning of Divine Life - Chapter 1 である。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003054.htmlである。火曜日叔母が亡くなり、葬儀に再び滋賀に帰った。愛する人の死ほど人を厳粛にさせる出来事はない。仏式の葬儀では人のいのちの儚さが強調され、念仏が極楽浄土に行く道だと勧められた。念仏により神の国にはいることができればそれは素晴らしいと思う。しかし果たしてそうなのだろうか。これに対して、聖書は「人は主イエス様、私たちの罪の身代わりに死なれ三日後によみがえられたイエス様を信ずる時に、永遠のいのちを賜物として受け取り、神の国にはいることができる。」と主の十字架の死よりの復活を対峙する。主の復活は単なる願望ではない。恵みの事実である。ここに永生の根拠がある。)

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