2011年2月8日火曜日

主の目から見えること

あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。(新約聖書 ヨハネ21:18)

「燃える炎のような目」(黙示2:18)は真実を見ています。その目は多くのものを見抜きます。

先ず第一に、その目は伝統的でかつ組織立った宗教や「キリスト教」を見抜きます。その尋問はざっとこういうことです。あなたの宗教は組織や歴史ある伝統や家族から受け継いだことなどに愛着を持ち、こだわったものですか。それともあなたの宗教は新しくあなたにあって誕生したもの、あなたの上に生じたこと、あなたのいのちそのもの、またあなたの存在そのものですか、と。

次に(私は差し当たり特にこのことを考えてみたいのですが)その目は人の気質を見抜くものです。あなたが今いるところになぜいるか、またあなたが関心を持っていることになぜ関心を持つのか、さらにあなたが今つながりを持っていることとなぜつながりがあるのか、そしてあなたが解消しようとなぜしているかそれぞれの理由はいずれもあなた自身の気質がそうさせるということを悟るように求めます。

あなたの嗜好や気質が審美的で神秘的だとします。そうするとあなたはあなたのイメージにあわせて宗教を選んだり、そのようなものを宗教としたりするのです。あなたの気質が憂鬱であるなら、もっと深遠で深く重々しく真剣で内省的なものがあなたの気を引き、あなたが自然にそれに答えていることがわかります。あなたはそのあなたのイメージに合わせて神をつくり、キリスト教をつくり、キリストをつくり、また聖書をそのように読むのです。

あるいはあなたは実際的な性格の持ち主であったとしましょう。するとあなたにはすべてのものは「実際的」であるがゆえにだけ価値があるのです。あなたには上に述べたような瞑想的な人と一緒にいることは耐えられないでしょう。あなたは「マリヤ的」なことにいらだつでしょう。なぜならあなたの関心は「お皿を用意すること」にあるからです。あなたにとっていかに目的に到達するかは目的そのものにくらべてはるかに重要性がないからです。

あなたはいかなる想像力にもわずらわされず、なされた事柄(その日実際に明らかにされたことがどれだけあるか)にすべての価値を置くことでしょう。あなたの神とあなたのキリスト教はあなた自身のイメージにあった実際的な性質を持つ完全なものか、あるいはほぼ完全なものであります。ですから私たちはこれら他の気質の方々と一緒に生活できれば本当は素晴らしいのですが。

しかし、これはそうならないのです。なぜならキリストはこれらのいずれの人でもないからです。キリストは違います。キリストはすべてにおいて善を結びつけられるかもしれませんが、それは神の性質を全然意味してはいません。キリストは違うのです。上に上げたすべての例は人間の魂ですが、キリストの基本的な性質および真のキリスト教は神の御霊の性質のものです。それは天的です。もし新生が何かを意味するとしたらそれは信者には別の性質が生まれることであり、その結果、彼ないし彼女は生まれながらの性質が欲しないところに連れて行かれるということを意味しているのです。(冒頭の聖句はこのことを語っています)

(今日の箇所は The Only Realityからの抜粋引用の私訳です。訳の不明瞭なところは下記の原文でお確かめください。
http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003037.html )

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