2011年2月20日日曜日

いのちに至らせるかおり

人知れず 椿ゆかしく 咲きてあり 弥生の声に 御文(みふみ)合わせて
ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう。私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。(2コリント2:16〜17)

主は私たちを教会を形成するために召されたのではありません。教会を形成することは私たちの仕事ではありません。もしそのことが認識されたら今日事態はまさしく変わって来たことでしょう。教会を拡大なさるのは主です。主が成長を支配しておられるのです。私たちがなさねばならないのは主の復活の力により主が約束してくださった通りに生きることです。

たくさん人がいる中で主が主の子どもたちの中でたとえ二人しか見つけることができなくても、その人の内に主のいのちが満ちていて自由であり、他の人々を集めようとせず(あるいは一定の真理や教えを納得させることにより人々を集めようともせず)ただキリストは自分にとってどういうお方か証さえできるなら主は道を開いてくださいます。

教会はあなたの生活によっても、また建物を買って人々を迎え入れるために励んだり、集まりに招いて教会員の役割を果たし地方教会を形成したとしても、それによって増やされるものではありません。それは主の取られる方法ではありません。成長はいのちによります。そしてこのことは先ずはいのちがただ一人の方の魂に入ることによるのであり、それから長らく時が経って他の人にそのいのちが与えられるのです。もっとももっとすぐにそうなるかもしれません。しかしポイントは成長はいのちによるということです。それが教会の成長なのです。

主の教会の成長にとって、主がいのちの主導権をとられ、中心であらねばならないのです。私は確信しているのですが、いのちが中心になるなら遅かれ早かれ二つのうちどちらかが起こります。すなわちそこではキリストが完全に徹底的に拒絶されることが極めて明白になるか、それとも逆に増し加わる成長があるかであります。

いのちにはとてつもない力があります。そしてその主のいのちは駄目になるか逆に息づくかのどちらかであります。いのちに対して取る人の態度によるからです。主はいのちに対してはいのちの香りであり、死に対しては死の香りであります。決して事態が中立で終わることはないのです。

(今日の箇所は The Risen Lord and the Things Which Cannot be Shaken - Chapter 11である。「生兵法は大怪我の元」とうそぶきながら訳業を続けている。知らぬは本人だけで、30点程度の答案を毎日披瀝している厚かましさよ。昨日、結婚披露宴でまた親戚の英語教師に会った。様々なことを教わった。これからも教わりたいと思う。読者の中には英語に堪能な方もいらっしゃるはず。忌憚なくご批判、またつたない訳の訂正をお願いしたい。今朝、庭に椿の花二輪を頂上あたりに見つけた。すでに一輪は前から咲いていたようで、よく見ると地面に花びらの一部が落ちていた。そこでもう一輪の昨日今日咲いたであろう椿をカメラに収めた。みことばは香りについて載せている。椿の香りはないが、みことばの真理にあやかりたいと思い強引な歌になった。原文はいつもの通りhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003049.htmlである。)

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