2011年2月10日木曜日

内なる光、それは注ぎの油なり

陽の光 蕾開かせ 如月の 初雪くぐる 椿の花弁
キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。(新約聖書 1ヨハネ2:27)

主の民、すなわち聖書を携えており、(使徒の)手紙の中に記されている聖句を大変よく知っている人々は、もし本当に自分たちがキリストともに十字架にかけられ、その死に合わせられて死に、主と一緒によみがえらされて御霊を受けたのなら、自分たちはうちに住まれるお方を通して光に照らされているのですが、一体いつになったらそのことを悟り認識するにいたるのでしょうか。「キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教える・・・」(1ヨハネ2:27)信者たち、クリスチャンたちは一体いつそのことを認識するのでしょうか。

手紙で聖句の知識のあるクリスチャンたちがどうして霊的な知識を切に得たい事柄について他の人々から教えを得ようとしてあちらこちらへと走り回らねばならないのでしょうか。私は相談したり、経験ある他の神の子どもたちがそれらについてどう考え感じているのかを知ることが間違いだと言おうとしているのではありません。しかし、もし私たちが自分たちの下した結論に基づいてその立場を確立しようとしているなら大変危険ですよと申し上げたいのです。物事の究極的な権威(者)は神の霊、注ぎの油である御霊であるからです。

私たちはお互いに助け合うことができますが、私の望みは、あなたがたが私がこれこれのことを言うから、今その言うことに従って行きたいというのでは困るということです。そうしないでください。私が言うことを、聞いてください。ノートを取ってください。しかし、それからあなたが神の子であるなら、(もしそうでないならしなくてもかまいませんけれど)あなたのうちにおられる究極的な権威あるお方のところへ行き、それが真理の確証かどうかを求め、さもなければ示してほしいとそのお方に求めて欲しいのです。それがあなたの権利ですし、あなたが神の子どもとして一人残らず当然持っている権利です。その権利は内住の光ある御霊、神の御霊の光の中にいるという権利です。

(今日の箇所はThe Anointing: Light Within Our Dwellings からの抜粋引用の私訳です。本文は下記サイトである。
http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003039.html 文章の後半にはパウロがいかに救われた時から御霊に従い行動したかが語られている。もし彼がすぐエルサレムに行き使徒たちに相談していたら、異邦人伝動は不可能であったろうと述べられている。そしてこのひたむきに主のみ求める彼の生き方を次の聖句で紹介しこの油注ぎについて書いた文章は終わっている。「私は、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのことを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」ピリピ3:8 That I may know Him!「私はキリストを知りたい」ピリピ3:10これがパウロの願いだった。

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