去年の今頃この図書館を初めて次男のお嫁さんに連れられて見学した。一年、あっと言う間だ。 巴里の空 日本の空も 一つなり われら神の子 神の家族だ |
時々、啓示は私たちに物事はほんの暫定的なものにすぎないという事実を教えてくれます。パウロ自身がサウロと言っていた時を取り上げてみましょう。ユダヤ教に関する限り彼の純粋性は正しいものでした。モーセのことばに照らし合わせても間違いは少しもありませんでした。様々な事柄の中で「木にかけられる者は誰でものろわれている」神にのろわれているというこの一事をふくんでいるのが(それまでの)神の啓示でした。
タルソのサウロはナザレのイエスが木にかけられたこと、そして「なぜあなたはお見捨てになるのですか」と叫ばれた事実を確かに見もし、また知っておりました。そのことはサウロにとってイエス様が神様にのろわれたことの何よりの証拠でした。だから十字架から出て来るどんなことも抹殺されねばならないことでした。ユダヤ教はその目的に仕えていました。ところがその終わりがやって来て、今や他の何かが入って来たのです。より偉大なこと、より完全な神様の啓示が入って来たのです。今までの啓示は部分的なものだったのです。
パウロ(キリストを信じたサウロの後の名前)はこのような暫定的な事柄は、私たちにキリストを紹介しキリストに導く「教師」だと指摘しています。タルソのサウロにとってのテストは、彼はある程度はそれまで正しかったことに反して、それは彼を他のものに導こうとするものにすぎなかったという事実の光に、これから自分が果たして合わして行けるかどうかということに関してでありました。
権威をお持ちの主は、私たちが暫定的なものであるにすぎず、神様の究極的で完全なお考えでないものへ私たちが向かって行くのをお許しになります。それは私たちをある地点まで導くはずです。そしてその与えられた地点で他のものが入り込みます。そのところで次のように私たちに言わせる啓示が与えられます。「そうだ。これは目的を達成するものだったのだ。だが、今や終わりになって、さらにもっと大きな満たしへと導かれているのだ。」主だけが私たちを別のものに導かれるのは、私たちが主が導かれ究極のことをなされると言うことにどれだけ真剣かどうかに関わっています。
神様に用いられ、恐らくは祝福されてきたことを振り返る際にかなりしばしば多くの人は言います。「そうだ。そういうことを言うなら、私たちはその方法にしがみつき、そこにとどまるべきだった」しかし、必ずしもそうではありません。パウロにとって挑戦となったことは今や彼が見た光の中で、より十分な啓示をともない、彼がそこから離れ、より完全な啓示の満たしを求めて、それに従う備えがなされるかどうかということでありました。
こういうすべてのつながりを通して天からのビジョン(幻)への服従の問題があることがおわかりでしょう。なぜならこの服従は犠牲が伴うからです。それぞれにあった一種の価格があります。これまで言及してきたあらゆる場合に犠牲があったことに気がつきます。価格は支払われねばならなかったことを意味します。あるいは別の言葉で言えば、困難に直面させられねばならなかったということでした。多くの誤解があったことでしょう。たくさんの一人で進まなければならないことがありました。(天からの幻を)見たことのない他の人々は後について行くことができませんでした。孤独、誤解がありました。そして天からのビジョン(幻)に従う際には多くの他の方法において困難さが生じたことでありましょう。
結局のところそれは意志の問題です。そしてそれがそうなら、キリストにとってさらに大きな問題ではなかったでしょうか。主イエス様がなされたように父なる神様にそんなに完全に、またそんなに徹底的に、何も文句を言わずに心を合わせられた方は誰もいませんでした。主は父に即座に聞き従われ、完全に従われました。終わりにほんのしばらく、しかし厳しい深い心の葛藤が続きました。「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(このように)心を合わせられているのです。
(今日の文章も中々深い意味のあるものだが訳が適切でないのが悔やまれる。ただ読者の便を図って、 That Which Was From The Beginning - Chapter 3 からの抜粋引用を下の原文より前後を延ばし、長めに訳した。二月になり二回目の雪に見舞われた。原文は例の通りhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003040.html である。)
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