セキレイの 喉を潤す 雪アイス |
私たちが神の家なのです。(新約聖書 ヘブル3:6)
主は最初のお考え、すなわち主の民に対する主独自の言い回しが回復される必要を覚え、そうなるように切望されていますが、現実には霊的家族の回復は少しもないのであります。※ですから、主の独自な考えと関連した神によるどんな新たな動きも、(もしそれが起こされるなら)霊的な家族を再導入することは確かでしょう。(新約聖書に登場する「父」「子どもたち」「息子たち」「兄弟」「家族」「家庭」など多く使われている用語の)すべてはそのことを意味しています。
(今)そのことが少なからず機能停止になっているのかもしれません。多くの誤解は除去されねばならないでしょう。全部の伝統的な機構が廃棄されねばならないでしょう。霊的家族生活やその家族の中の訓練ということとつながりがあるところに素晴らしい価値があるのです。家族の中における訓練以上にすぐれた訓練の場はありません。
制度においてそれに代替する適当な訓練の場を探すことはできないでしょう。主の信頼できる、また主のために役に立つ男女は制度の中では訓練されないで、家族の中でこそなされるというのが本当なのです。極めて多くの場合、主の働きをなすために出かけて行く人々が人間関係でだめになるのは訓練を受けるその家族を欠いていることがあります。
神の働きの極めて多くの悲劇は組織化された方法で一緒に働いている奉仕者の間で人間関係が崩壊しているということであります。そして彼らは家族生活の訓練を通して難しい人とともに喜んで生活する方法を決して知らなかったのであります。霊的家族の訓練の中に大きな価値があるのです。それは極めて密接な人間関係を必要としているからです。
私たちは教会に行っている人々が仲間のクリスチャンたちや教会員と余り緊密な関係を持ちたくないと言っているのを聞いたことがあります。彼らはそれよりもはるかに互いに知りたくないのです。それがそもそも敗北です。そのことは主にとって大変大きな損失を意味します。
主がお取りになる方法は主の民をもっとも緊密な関係に一緒に導かれ、もっとも難しい人でも除外しないということです。主は全く特別な家族をお持ちになっています。すべての種類の人々からなり、それらのうちの何人かには変わった人々もいます。けれどもそれらすべては素晴らしい訓練の土台を提供してくれる(と言われます)。
(今日の箇所は Filled Unto All the Fullness of God - Chapter 6 の抜粋引用訳ですが、1934年になされたメッセージの聞き書きのようです。時代は第二次世界大戦の始まる前夜です。諸国民の対立抗争がそろそろ抜き差しならぬ状況に立ち至っている時です。特に日本にとってはこの時はすでに深刻な事態だったことでしょう。※を載せましたのは、実はその当時の教会の姿は初代教会からますます離れて行って、教会に集う人々はよそよそしくお互いに無関心になって行った状況がこの文章以前に紹介されています。それで出だしの文章がこのようになっています。この文章の後、この神の家族に新しく主を信じた方が加えられる喜びの叙述も続きます。ちょうど10日ほど前、長女家族に新生児が与えられました。先ほどその伯母さんにあたる方から写真がメールで送られてきました。家族の豊かさを思わされました。ましてや、神の家族はそれ以上ではありませんか。ここには後半にありますように、違った者が一つとされる神の家族の世界があるのです。「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。」エペソ2:14〜15。スパークス氏は戦争をどんな思いで見ていたのでしょうか。原文はいつもの通りhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003046.htmlです。誤訳はお許しください。2月3日の記事も今回と同じ文章の抜粋ですがそちらの方は13章のものでした。ご参照ください。)
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