2011年2月27日日曜日

御名を運ぶ器

舟浮かべ キリストの名を 運びたし (叔母の遺墨「落日帰舟」より)
行きなさい。あの人はわたしの名を、・・・・に運ぶ、わたしの選びの器です。(新約聖書 使徒9:15)

主は器を必要としておられます。ダニエルのような器です。個人的であろうと集団的であろうと神の証を神のために運ぶ器です。またネヘミヤのような人を必要としておられます。証が妨害されたために陥っている人々の苦悩をそのまま体現している人です。

またエズラのように神の御心に反対するいかなるものとも一瞬たりとも妥協しない人を必要としておられます。さらに神にはエステルのような器も必要とされています。彼女は襲い来る嵐をものともせずに、神の民を敵の脅しから解放するため、民のいのちのために王座にいのちがけで向かって行きました。ああ、何とたくさんの祈りが積まれたことでしょうか!

だから愛する方々よ、もし私たちが主の終わりの時の働きにおいて主に役立つ器でありたいなら、私たちの心にも似た態度が必要と「されねば」なりません。私たちは神様の関心を持ち、非常に深い方法で訓練されねばならないのです。主と主の関心のために価値があるものは何ものをも提供するのを惜しんではいけません。

あなたが主に機会を与えるなら、主はどんなに事を貫徹されるかを(知って)驚くことでしょう。すべてのことは、「必要」の認識とそれぞれの心にかかってくるこれらへの配慮・重荷から始まります。私たちが本当に聖霊の促しの中にいるなら、このような旧約聖書の器となった人々に見いだされる共通した特徴は私たちのうちにも「織り込まれている」ことがわかるでしょう。

そしてこの一事、すなわち主の重荷と主の民の証に心を配り、捨てられた民となることを甘んじて受け入れることでしょう。

(今日の箇所は The Time in Which We Live の抜粋引用訳です。最後の文章などは訳するのが難しくこのように表現しましたが、果たしてその通りなのか皆さんは是非http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003056.htmlの原文にあたって下さい。そして間違いを指摘して投稿して下さるとありがたいです。全体の文章は短く通読可能です。前回2月14日の「主のために苦しむ」も同じ文からの抜粋訳です。写真の遺墨は一昨年召された叔母の作品であります。先日の葬儀に出席し、いとこの家に同年代の三人で泊まった時にこの写真を撮影しました。この叔母の字は生きていて、いつ見ても味があります。叔母に聖書のことばを書いて欲しかったです。でも今日のテーマにぴったりだと思い、使わせていただきました。)

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