折々に伊吹を見てや冬ごもり 芭蕉 |
ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。(2コリント1:9)
あなたはご存知でしょう。主の民でない人々は自分たちが(霊的に)死んでいるという事実を知らないで生きているということを。その人たちは自分たちに肉体的な死が訪れるまでは死がそんなに大切な真実性を持ったものとは考えないのです。日常生活で物事がうまく行っており、健康で貯えもある時など、死は決して現実性がありません。
けれども、死は神の子どもにとっては(天の)ふるさとへ連れて行かれることであります。私たちが神様の御手のなかに入れられるやいなや、言うならば、全く具合が悪く、耐えられず、進むこともできないような時、このことが始まり、私たちは(天の)ふるさとへ連れて行かれるのです。私たちの生まれながらの命や力はこの場合、何にもなりません。
神様の御手のうちにある真のクリスチャン生活の進む道は段々無力を味わわされて行くものであります。それは間違っていますか。いいえ、無力さを経験もし、何事につけ不可能なことを体験するものです。もしそのことがあなたの知るところとなっているなら、事態が悪く進んでいると考えないでください。もし、あなたが神様との交わりに導かれているという絶対権限の中でなお力がないという現実を知らなかったら、あなたはそのことを霊的に未成熟の段階に自分はいると捉えるかもしれません。(それなら)あなたは死んだ人と同じです。しかし死の事実はあなたを天のふるさとへ連れて行き、本当の者(生きる者)とするのです。
しかし、一方では復活が死に反対し凌駕する形となって現れます。その背景やその基礎に基づいて神の子どもはますます次のように言わざるを得ない立場に移されるのです。「それは主だった。それが主なのだ。私はそのことを説明できない。私はそのことを説明する者ではない。それが神のすべてである。」あなたも復活が神のすべてであると十分ご存知でしょう。あなたは様々な利口なことやでっちあげをうまくやりとげることができるかもしれないが、死人をよみがえらすことに関してはまだ何もできなかったのです。
それは神の権限です。唯一、神だけの(権限)です。だから神様の御手のうちにあって神の子どもはますます前進的に「それは神様の(もの)です。神様のすべてです」と言わざるを得ないところまで連れて行かれるのです。そしてそれこそが証なのです。主はそのことをされた。主はこのことを今なしておられる、という証です 。
それが荒野でのイスラエルの歴史ではないのですか。ごらんなさい。イスラエル人はもう終わりだと思われるところまでどんなに何度も何度も連れて行かれたか。この先には何もないというところまで。でも、それから彼らは新しい歌、「主はなされた」と歌って必ず出て来なければならなかったのです。それこそ死に打ち勝つ勝利です。復活のいのちのあの力なのです。
(今日の箇所は The Testimony of the Christ - Chapter 6 です。 ちょうど土曜日の記事の前の章にあたる箇所ですね。原文は例の通りhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003052.htmlです。写真は先週の土曜日新幹線から見た伊吹山です。この芭蕉の句は私の町の神社の境内の碑に刻まれています。また好事家の手によって人家の庭石に刻まれたりしています。それほど私のふるさとはこの伊吹の句に親近性を感じたのでしょうか。私がこの句を初めて知ったのは前にも触れたことがあるのですが、高校時代で、寺田寅彦の随筆によってでした。彼のこの句の考察はさすがなものがあります。私はそれに対してあえて「折々に御文(みふみ)開きて天国へ」とそれこそ季語なしの無粋な句で今日の記事をまとめさせていただきたいのです。)
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