2011年2月25日金曜日

Christ in heaven

紅梅の 色鮮やかに 古希迎えし 我がはらから と語りし日(彦根城馬門) 
「わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。」(新約聖書 ヘブル12:26)

すべてのものが地においても天においても揺り動かされます。そのことを通していかに生きておられるキリストの支配が貫徹しているかをわからせるためにそのことが現在するのです。当時のユダヤの信者たちは神殿や神殿を支えている全システムが崩壊されて行くのを目の当たりにしました。その結果彼らは自らがどれほどキリストから恩恵を得ているのか、また自らの生活がどれほど地上の事どもに縛られているかをよく熟知したことでしょう。彼らは神殿やそれにまつわるすべてが消え去って行った時、残されるものが何であるかを知り得たことでしょう。

神様が揺り動かされるのはユダヤ教だけではありません。ここで言われている天そのものも揺り動かされるのです。神様は将来天地を揺り動かされるでしょう。その揺り動かしによって地上のシステムが崩壊し、なかんずくキリスト教が天的なことがらの代理者を自認していることが試される時(と申しますのはキリスト教はユダヤ教がそうであったようにそのように自認することによって発展して来た宗教ですから)、私たちが残すものが明らかになるでしょう。

人々は新約聖書にしるされている地上の代表者を教会や宣教や教会制度の啓示だとして参りました。だからすべてのことが試されるのです。と言いますのは多くのことが今やそのるつぼの中にあるからです。論点は天と地の揺り動かしです。その結果一体何が取り残されたのでしょうか。焦点はキリストにあります。

私たちが言って来たことをあなたがたが好まれるかどうか、また同意されるかどうかは私には気になりません。けれども、私は、私たちにとって、天におられるキリストがいのちであり、すべてであり、この地上ではキリストに代位するものは何もないということは是非ともお伝えしたいのであります。

神様はすべてのことがらをキリストに代位する目的をもって動かされます。神様は永遠の昔から万物においてキリストが卓越しておられ、完全な満たしを備え、何者もイエス様の前では栄光のあらわしようがなく、またその地位につけるものはないように定めておられました。

主なる神様は(このような)もっともっと大きなキリストの量りの中へと私たちを導いて下さり、かつ、そのキリストを私たちの中に招き入れてくださるお方なのです。

(今日の記事は That Which Was From The Beginning - Chapter 2 の抜粋引用訳です。訳は例によりいい加減です。またこの文章は結論部分にあたりますので、読者にはすべからくhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003055.htmlの原文を確かめられることをお勧めします。昨日の話の続きだが、叔母の葬儀の読経は私の中学一年のときの数学の先生であった。ところが今もそのおり何度も聞かされた読経が音の余韻となって脳裏に残った。一方遺された叔父を親族が皆気遣っていた。そう思って今朝のこのスパークス氏の文章を一章から通読していたら、二章の始めの方に次の件があった。If you heard that word spoken into your heart by the Holy Spirit repeatedly, "Heavenly! Heavenly! Heavenly!" you would say, "Now what is the Lord trying to say to me? What is my danger? Where am I?" というようにheavenlyがスパークス氏によって三度繰り返されていた。叔父やいとこたちとともにこのheavenlyをともに共感したい。NZの地震と言い、今日の箇所は不思議な思いで読ませていただいた。)

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