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2017年1月1日日曜日

永遠のご計画

神のご計画に従って召された(ローマ8:28)

 神様は非常に大きなご計画をお持ちです。それはとこしえに続く召しとすばらしい罪の贖いによってなのです。非常に大きなご計画・・・大部分のクリスチャンが理解しているよりもはるかに偉大なものであります。恐らくクリスチャンのかなり多くの人々が自分たちは救われていると知っており、そのことを大変喜んでいることほどにはほとんど何も獲得していないと言っても嘘ではないと思っています。比較的に言えば神様の偉大さ、とこしえから続く偉大なご計画「神のご計画に従って召された(ローマ8:28)良きものを本当に経験している人はほとんどいないのです。今は、そのご計画が何であるかを言い、説明しません。事実を述べるだけで十分です。

 私たちは一つの非常に偉大な計画をもって召されています。それはただエジプトや悪魔の掌握から抜け出ることだけでなく、他ならぬ神の御子、イエス・キリストの限りない満たしや永遠の召しという一つのとてつもないご計画をともなっているのです。それは私たちがキリストにあって召されている偉大さであります。しかしどれだけのクリスチャンがほんとうにそのように召されているでしょうか。もし彼らがそうだと知っているなら、その意味を味わっているでしょうか。すなわちこの主のいのちは無尽蔵のいのちであり絶えず新しい展望があるからです。

 私は誇張しているのではありません。天が開かれ、私たちが召されていることがどんなことであるかをもっともっといつまでも体験するのです。それはまさにすばらしいものです。・・・ただ救われ天に達し、あなたの罪が赦され、救いとともにもたらされるお決まりの祝福を持つことだけではありません。あなたの前に、そして私たちに関して「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである(1コリント2:9)。」というすべての神のご計画が永遠の時から永遠の時へと差し伸べられているのです。

(今日の箇所はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/002999.htmlです。これから、今まで訳されていなかった日の訳を少しずつ掲載して行きます。引き続き読者の方の忌憚のない批判、誤訳の指摘をお願いします。今日のところも自分では果たしてこれでいいのかと思うところがあります。)

2011年7月14日木曜日

挑発という炎

青空に 百日紅 鮮やかに 思わず仰ぐ 天の宇宙 
わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、 どんなに願っていることでしょう。あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。(新約聖書 ルカ12:49,51)

(避けることのできない怒りの炎でした。聖霊がやって来、炎が下され、地を移動し始めるや否や恐ろしい反対の暴動が起こったのです。)

もし、皆さんも私も御霊の男であり女でありたいのなら、気ままな生き方は送れないでしょう。地獄の憎しみはそこに集中するでしょうから。ただちに衝突が生じ、聖霊が私たちにますますその道を示し、神の御心に導けば導くほど、私たちがこの反対や敵意をますます見いだすのは当たり前だからです。そしてその対立は私たちと世との間だけでなく、時々主の民自身の仲間のうちにも生ずるのです。皆さんは時々なぜだと不思議に思われることでしょう。

皆さんは新約聖書を読むに連れて、「これらの人々はどうかしたのですか。なぜ彼らはそんなに狼狽して悩まねばならないのですか。そしてこういうことがなぜそんなに自然になされねばならないのですか。困難にもめげず、またそんなにも理不尽なのですか」と不思議に思われることでしょう。しかしそこにある通り、それが事実なのです。それは避けられないことであります。

ご存知の通り、このように、主がなすために来られ、今もしておられることは、いかなる中立状態も認め得ないものなのです。あれかこれかになるのです。賛成するか反対するかです。燃える炎のような目(訳注:黙示 1:14)、ここには再度、炎が登場しているのですが、その目は微温的なことやラオデキヤの人々の性格のようないかなるものも(訳注:黙示3:16)許しません。炎にはつねに明確な要素があり、積極的な状態を生み出すのです。

もし、すべてのことが全部うまく行き、穏便で何の妨害も悩みも敵意も反対もなければ、皆さんは聖霊が非常に犠牲の大きい、そのような積極性を目的として、それだけたくさん働くのかという疑問に対する理由を持つのです。主とともになのかそれともそうでないかであり、その間には何もありません。遅かれ早かれ結果は出されることになります。

だから、主はそのことが主がなすために来た理由だと言われるのです。このことは思わぬ出来事であったり、悪化したり失敗だったりする事態ではありません。これがまさしく主が地に炎を投ぜんがために来られたことであります。これらのことは炎がもたらす避け得ない結果なのであります。

(今日の箇所は The Cross and the Way of Life - Chapter 1 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003282.htmlです。)

2011年5月10日火曜日

十字架による三つの分岐点

矢車草
あなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。(新約聖書 コロサイ2:10)

十字架は完全で最終的な原理です。たとえ十字架が多くの側面を持つとしてもです。十字架が完全で最終的な原理なのです。完全で最終的である十字架は聖書の始めにふさわしいものであったことを見ましょう。

十字架は原理として最初から絶対的なものでした。あなたがたと私が自分たちの生活を十字架の日のこの時に戻し、十字架にある神様の満たしを経験する限りにおいて、私たちはこれ以上もはやありえないという程度までこの漸進的な発展と満たしのいのちを知るようになるのです。

十字架は大きな分かれ目です。十字架は人々を三つの種類に分けます。先ずはいのちを決して得ない人と、いのちを得る人とに大きく分ちます。男性であろうと女性であろうと、とにかくいのちを得ることは、主の十字架を受け入れることに完全にかかっているのです。しかし、さらに分離があります。いのちを得る人と、いのちの満たしに進む人とが分たれるのです。そこには極めてはっきりとした分離があるのです。あなたが理論を好もうが好まなかろうが、それは事実なのです。

いのちの道にある多くのクリスチャンがいます。すなわちその人たちはいのちの道にすでに入ったのですが、いのちの満たしにまで進まない方々です。それが新約聖書がまことに必要としていることです。(新約聖書は)いのちに入った人々がいのちの満たしにまで進むことをさせようとしているのです。十字架はこのような人々をも分つのです。なぜなら、私たちが十字架によっていのちの道にやって来るのに対して、十字架によってはじめていのちの満たしにも入れるからです。そしてそれがもう一つの事柄—より完全に、より深く十字架を自らに適用することであります。

だから十字架は三つの種類の人、すなわち主のいのちを持たない人、主のいのちを持っている人、持つだけでなく、主のいのちに満たされるまで進んでいく人の三種類に分つのです。

(今日の文章は The Cross and the Way of Life - Chapter 2 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003179.htmlです。「十字架といのちの道」と訳すのでしょうか、この主題での記事は過去、1/1、1/7「自我、このやっかいなもの」、3/3「主に仕えるとは?モーセの場合」、3/30「十字架の原則」、4/2「自我が砕かれること」とこれまで5回登場しています。しかも前後矛盾もいいところですが、principleを3/30では「原則」と訳しておきながら、今回は堂々と「原理」と訳しています。3/30を比較のために読まれると、より「十字架の原則・原理」でスパークス氏が何を言いたかったかが、理解していただけるのでないでしょうか。)

2011年4月2日土曜日

自我が砕かれること

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスはご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍ばれました。(新約聖書 ヘブル12:2)

十字架の苦しみは私たちを解放する道です。もし皆さんが自分自身の霊的体験を顧みられるなら、神様とともに歩む経験をいささかなりともしておられる方々は、肉が解放されることを知ったのは深い突き刺すような苦しみの時を通してであったことはよくご存知でしょう。肉は霊的な生活の中で解放されるのです。そのことは真実でないでしょうか。

そうです。私たちは霊において魂において苦しめられる時にさしかかります。私たちには主がなさっていること、主がこの苦しみによって試みられていること、背後に主がおられることがわかりません。だが、私たちは自分の経験の特徴を知り、私たちが被(こうむ)っていることがどんなことか知ります。そしてそれは続きます。

私たちはもちろん主に止めてください、早く終わらせてください、そこから私たちを解放してくださいと求めます。主は私たちを気に留められません。it is only those people who get out the other end who say, ‘Thank God, He did not take any notice.’ そうこうしているうちに、私たちは考えます。主は親切や良いことや正しいことを行なう以外の何物でもないのだと。しかし、主の御手のもとにへりくだる時、私たちは主がなさっていることを知り意識し始めます。恐らく、主は、たとえば私たちの誇り、主に頼らない心あるいは無責任さにメスを入れられている、と。それが浮かび上がって来る要点です。四六時中自分自身についてほとんど困惑させられることに直面させられます。もしそういうことがなかったらそれがそんなに私たちのうちに強力に存在したとは信じなかったでしょう。

もちろん私たちはつねに一般的に言って、人間の一人として人間にまた自分たちにもそれがあると信ずることにやぶさかではありませんでした。そうです。私たちは私たちにそのような誇りや何かがあると話されるなら、腹を立てることはなかったでしょう。しかし、そのことが厳しい試みに入り全てがお手上げになるまでは、どんなにそれが深く根ざしていて、恐ろしく強いものだとは信ずることがなかったのです。私たちは神様のための私たちの生活や働きはすべてその点で降参せざるを得ないと知りました。厳しい試練です。

皆さんは今私が話していることがお分かりでしょうか。私たちがその所与の時の問題点が極めて明白であると知り、それを主のところに持って出ることができ、そうすると、完全に究極的に取り扱われ、その時、私たちは新しい戸が開くのを発見します。それは新しい解放感であり新しい可能性です。そして私たちは次のことを全く良く知るのです。すなわち、主が背後におられることは私たちが考えているように、私たちを砕くこと、また駄目にすることでなく、拡充をもたらすことであり、解放をもたらすことであり、解放がつねに十字架、苦しみの線に沿って備えられているということです。拡充はつねにその方向のうちに存在するものです。

(今日の箇所は The Cross and the Way of Life - Chapter 1 の抜粋引用訳です。この「十字架といのちの道」とも訳せる題名のものはすでに1/1、1/7「自我、このやっかいなもの」、1/24「主に仕えるとは?モーセの場合」、3/3「わたしのことばは火のようではないか」、3/25「十字架の原則」と何度も引用のあるものです。1/1のものは訳していないものですが、現在のホームページ主催者がいかに重要視しているかがわかるというものです。それだけに訳業の未熟さが情けなくなります。なお原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003113.htmlです。文中の英文は何となくわかるような気もしますが、どうしても構文がつかめません。英語の専門家の方の訳を投稿してくださると助かるのですが・・・。なお後半の文章はややこしくなるので、というよりうまく訳せないので一部カットしました。)

2011年3月30日水曜日

十字架の原則

太陽を愛しておればたんぽぽは真似しまあるく輝いている 後藤瑞義
子は自分からは何事も行なうことができません。(新約聖書 ヨハネ5:19)

それが十字架の原則です。イエス様はご自身からは何事も行なうことができないという十字架の立場を甘受されました。そのことはすべて神様から発したことであるに違いありません。それ以外の道はありません。

私の人生においても30年前に大変革がありました。その時、十字架の原則が宣教(この宣教は長年携わってきたものですが)に反対して立ちはだかるようになりました。それだけでなく宣教に関するすべての事柄が、私自身に耐えられない重荷となるほど、スタッフを立ち上がらせるために、学んだり、読み物をしたり、真夜中までそういうことをしていたのですが、それらすべてに対してもその原則が反対するようになりました。

他の方々は恐らく私のそういう態度(一生懸命宣教に尽くしている姿)は立派だと思っていたでしょうが、その時は危機だったのです。宣教に携わっている方々やそのことを真剣に考えている皆さん、私の言うことに耳を傾けてください。大転換が起こり、この原則、十字架の原則を深く知るように導かれ、戸を閉めて密室で主に申し上げたのです。「私はあらゆる宣教をやめにします。 あなたが今してくださらなければ私は二度と説教をしたくありません。私はこの数年ずっと努力してきました。自分で生み出してきました。でももう終わりです。あなたがそれをなさってくださらなければ。」けれども私はその原則を知ったのです。皆さんもお分かりのように、十字架の原則とそれが私にとってどういう意味を持つのかを知ったのです。

私に自分のことを語ることを許してください。私は何らかの方法で家に収入をもたらさなければなりませんでした。翌週には教会の役員たちに辞表を提出し宣教師の職から離れるようになっていたでしょう、もし主がそうしてくださらなかったならば。ところが主はご自身の原則に忠実でした。私が宣教のために生み出すものはどんなことも完全に終わりました。そして神様が意図されたことを認識しましたので、十字架の原則は私のものとなりました。それは十字架の原則、すなわち私自身から出るものは何もないという原則でした。

骨折ることや精神や心の研究が生み出すどんな成果も神様の働きや奉仕においては通ずる手だてはありません。神様はご自身の原則に忠実なお方です。それはいついかなる時もそうです。その日から今日に至るまで宣教について悩みはなくなりました。宣教に行かせていただくことは容易いことであり、受け入れることよりはるかに容易であります。

宣教を口やかましく言うことは十字架につけられていない肉の働きであります。 そうなんです。それ以来開かれた天がずっとあるのです。もう一度この個人的なことに触れさせていただいたことをお許しください。しかしこのことは本当に起こったことなのです。十字架の原則はあらゆる分野に通用する原則であります。

(今日の箇所は The Cross and the Way of Life - Chapter 2 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003110.htmlですが訳に自信がありません。原文の読める方は是非原文と照らし合わせてください。なお、このテーマのところは過去二回載せています。一つは1/24「主に仕えるとは?モーセの場合」もう一つは3/3「わたしのことばは火のようではないか」です。これらはいずれも1954年のイースターで語られたメッセージです。さて、この70数日間の翻訳を通しても一度も自己を語る場面に出くわしませんでした。そのことを極力避けているようにしか思えないスパークス氏ですが、ここでは珍しく証をしています。カインとアベルという能力ある人間と何も持ち合わせない無力な人間の対比と言う観点で論が進められ、その例を聖書中に、洪水とノア、エジプトとイスラエル、バビロンとイスラエルの残りの民、ローマ帝国と初代教会のクリスチャンたちと探りながら、エジプト、バビロン、ローマ帝国はそれぞれ繁栄を誇ったが今や見る影もない状態になっていることを指摘し、再びカインとアベルに戻ります。そして全く無力なアベルに対して人の間でもてはやされ自信を持ったカインの方が主なる神様に退けられた次第が述べられます。そして次のように十字架の原則が歌われるのです。"Not the labour of my hands Can fulfil Thy law's demands; Could my zeal no respite know, Could my tears forever flow, All for sin could not atone." 何もできないことそのことを深く認識すること、それが「十字架」だと知らされる深い霊的感動を覚えさせられる場面です。そしてしばらくして今日の箇所が語られているのです。)

2011年3月3日木曜日

わたしのことばは火のようではないか。

クロッカス 黄色鮮やか 天を向く  
わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。(新約聖書 ルカ12:49)

火は常に物事を明るみに引き出すものです。火が這い寄り侵入し襲いかかる時、火によって滅ぼされるものと火によっても何の効き目もないものとを峻別します。物事を鮮明にし、ふるいわけ、決定的にするのです。ルカ12:51の文脈を見てみましょう。

「あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ分裂です。」主イエス様は続けられます。「今から一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗し・・・」と。それぞれがふるいわけられ、その属するところに納められるのです。

ある区分は神からのものであるので、存続しいつまでも永らえるものです。別のものは火によってひとなめにされ、いともたやすく存続そのものが断たれることでしょう。「この火はその力で各人の真価をためします」とパウロは言いました。(1コリント3:13)不可避で過(あやま)たず峻別してしまう火です。

それはいつも聖霊の働きの結果でありました。私たちは自らが属しているところに落ち着くのであります。それは四六時中、一種の分離する働きをします。あなたは主のために存在しているのですか、それとも主に反対するために存在していますか。あなたは主とともに行動するものですか、それとも行動しないものですか。

聖霊は私たちの本質が明らかにされるように、また私たちがそれにふさわしくなるように四六時中迫りその道筋を通して明らかにされます。その結果、聖霊が働く時、私たちははっきり主のものとなるのです。分離は必ず来るものであり、避けられないものであります。

(今日の箇所 The Cross and Way of Life - Chapter 1 は英語力のない私には全くお手上げの箇所でした。苦労したあげくの文章が上のものです。 原文http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003062.htmlの意味をはき違えていないかとただ恐れるばかりです。ただ今日は定例の家庭集会が開かれ、「貧しい者は幸いです。」と一人の兄弟にイエス様のおことばを伝えていただきました。自分自身が主の御前で驕れる者、豊かな者であることを骨の髄から知らされた思いです。天の御国に入るために枢要なみことばでした。みことば自身が火です。おろそかに人生を歩みたくないです!)

2011年1月24日月曜日

主に仕えるとは?モーセの場合。

義母植えし 蝋梅の花 雪の中 
今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。(新約聖書 ローマ7:6)

主に仕えることは世からの分離に始まります。つまり、この世の王国から解き放たれることですが、それは徹底的な分離です。教会はこのことを認識すべきです。モーセが解放と分離を経験したとき、主なる神様が残されたことばは「ひづめ一つも残すことはできません」(出エジプト10:26)でした。ご存知の通り、モーセは徹底的に主に仕えました。ひずめ一つ残さないほど徹底的でした。それが神様に対する仕え方です。「見なさい。人々は完全に脱出しました。もはやエジプトとは何のつながりもないのです。」

しかし、主に仕えることはつねに外面的なことだけでなく、深い自己自身との分離に貫かれなければならないことを覚えていらっしゃいますか。私たちは世から出て、神の民の成員になるだけで十分なのではありません。そのことよりももっと必要なことがあります。私たちの全自我が厳しく処理されねばなりません。大切な分離はそこで行なわれる必要があります。

衝動的で熱くカッとなりやすいモーセは静かで忍耐強い謙遜なモーセとならなければなりません。とりわけ謙遜と忍耐を学ばなければなりません。40年間にわたり自己を明け渡す訓練はどんなだったでしょうか。モーセがやがていのちの働きを本当にしなければならない時、彼がもっとも必要とした事柄の一つは忍耐だったでしょう。忍耐を生み出すには何もしないという訓練ほどふさわしいものはありません。私たちは、忙しくしていたり、何か事を行ないあらゆる衝動を満たしている時は忍耐を学べないものです。それに対して、何もしようとせず、みことばを伝えたり、働いたり、仕えたりすることから切り離されて、黙って何もしない訓練や遅延する訓練を受ける時、神様は、そうしていなければ実現することのないような、もっとすぐれた仕え方を用意してくださっているのです。

(一日、家内の母の一周忌で帰省し、親せきの英語教師と話し合う機会があり、専門家の英語翻訳の話を聞いた。無知でどうしようもないが、新年から始めているこの試みに一つのヒントが得られた。今日の訳は少しその影響がある?引き続いて下記のサイトの翻訳である。
http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003022.html )

2011年1月7日金曜日

自我、このやっかいなもの 

河辺にて 二羽たたずむも 摂理なり 
そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。(ルカ14:33)

どんなことも、それが(主に)明け渡され、十字架の焼印を受けるまでは確立されないということは本当なのです。あなたはもうそれを経験なさいましたか。たとえあなたがそのことを神様から与えられたとしても、私たち自身のうちに絶えず、神様がくださったものにさからうという危険性が存するものです。私たちは神の賜物に自分の思いをすべりこませ、どういうわけかそれを自分のものとします。これが「自我」です!これが「肉」です!そうなのです。神様は私たちに神様の働きをゆだねなさいます。すると私たちはその働きを主にゆだね続けることをしないで、私たちの働きにしてしまい、用心深くなって自らのやりかたに他の人々が入ってきてその働きを奪ってしまわないかと恐れるようになります。ご承知のように「私たちの」働きという障害です。肉はそんな風にしてのしあがってき、他の様々な方面に、またつながりにまで手を伸ばします。神様が何かをしてくださる。すると私たちはこうなるのです。

この「肉なる性質」は神様が奇跡をもってなしてくださる事柄においてさえどうしても自分自身を閉め出そうとはしないのです。私たちは奇跡でさえ神様をほめあげるのか、それとも自分自身の肉を満足させるかのどちらかに向かうのです。神様が授けてくださることでさえ―そして恐らく神様が授けられる別の事柄を考えても―私たち自身が主に明け渡し、自らが自我の「死」の刻印を受けるまでは決して何も確立されないし、確信にいたることはないのです。自我が神様のために生き、神様に向かって生きてはじめてできるのです。そうするとたとえどんなことがあっても私たちはそのつながりのなかで神様のために、また神様に向かって生きるようになります。十字架が万事につけ神のいのちの方法です。immediately the Cross is nullified by this thing upon which the Cross says, "No, No!" we counter the life of that thing, we strangle its life, we limit its life.私たちは前進を妨げるだけでなく神様が増し加え与えようとされていることを小さなものに変えてしまいます。なぜ、神様は私たちに増し加えることがおできにならないのでしょうか。その答えは以下のもので明確であります。


それは人がこの神の働きに参加するときにどうにかしてその働きを自らのものにしてしまってきたことです。十字架はそのことをいい加減にしないで、これまでも神様に明白かつ完全で自由な道を与えるように(私たちを促)してきました。

By T. Austin-Sparks from: The Cross and the Way of Life - Chapter 4 から引用しました。題は引用者が勝手につけました。この文章はオースチン・スパークスによる一種のデボーションサイトだと思われます。本日のところはどうしても訳せず、相当意訳になっています。英語の堪能な方は直接上のサイトをご覧下さり、確認されますように。また文中の英文は訳せなかったところです。ご教示をお願いします。)