矢車草 |
あなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。(新約聖書 コロサイ2:10)
十字架は完全で最終的な原理です。たとえ十字架が多くの側面を持つとしてもです。十字架が完全で最終的な原理なのです。完全で最終的である十字架は聖書の始めにふさわしいものであったことを見ましょう。
十字架は原理として最初から絶対的なものでした。あなたがたと私が自分たちの生活を十字架の日のこの時に戻し、十字架にある神様の満たしを経験する限りにおいて、私たちはこれ以上もはやありえないという程度までこの漸進的な発展と満たしのいのちを知るようになるのです。
十字架は大きな分かれ目です。十字架は人々を三つの種類に分けます。先ずはいのちを決して得ない人と、いのちを得る人とに大きく分ちます。男性であろうと女性であろうと、とにかくいのちを得ることは、主の十字架を受け入れることに完全にかかっているのです。しかし、さらに分離があります。いのちを得る人と、いのちの満たしに進む人とが分たれるのです。そこには極めてはっきりとした分離があるのです。あなたが理論を好もうが好まなかろうが、それは事実なのです。
いのちの道にある多くのクリスチャンがいます。すなわちその人たちはいのちの道にすでに入ったのですが、いのちの満たしにまで進まない方々です。それが新約聖書がまことに必要としていることです。(新約聖書は)いのちに入った人々がいのちの満たしにまで進むことをさせようとしているのです。十字架はこのような人々をも分つのです。なぜなら、私たちが十字架によっていのちの道にやって来るのに対して、十字架によってはじめていのちの満たしにも入れるからです。そしてそれがもう一つの事柄—より完全に、より深く十字架を自らに適用することであります。
だから十字架は三つの種類の人、すなわち主のいのちを持たない人、主のいのちを持っている人、持つだけでなく、主のいのちに満たされるまで進んでいく人の三種類に分つのです。
(今日の文章は The Cross and the Way of Life - Chapter 2 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003179.htmlです。「十字架といのちの道」と訳すのでしょうか、この主題での記事は過去、1/1、1/7「自我、このやっかいなもの」、3/3「主に仕えるとは?モーセの場合」、3/30「十字架の原則」、4/2「自我が砕かれること」とこれまで5回登場しています。しかも前後矛盾もいいところですが、principleを3/30では「原則」と訳しておきながら、今回は堂々と「原理」と訳しています。3/30を比較のために読まれると、より「十字架の原則・原理」でスパークス氏が何を言いたかったかが、理解していただけるのでないでしょうか。)
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