神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。(新約聖書 ヘブル1:1~2)
むかしのイスラエルの悲劇は何だったでしょうか。もちろん、むかしのイスラエルの悲劇は最終的には彼らが(神様から)退けられたことです。彼らの退けられることは「神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます」(訳者注:マタイ21:43)(という聖書の言葉通り)です。そのことは起こりました!今日そうです。取り去られた天の御国、それはそのイスラエルのためでなく、別のもののためなのです!
イスラエルの悲劇は彼らが神のご計画あるいはそのご計画にある動きから退けられているということです。このことが2000年間続いてきました。どれだけの長年月か私たちにはわかりません。恐らくはそうは長くはならないでしょうが、皆さんはそっとしておくことです。
たくさんの皆さんを困惑させるつもりです。皆さんは当分の間イスラエルをそっとしておくことです。もし皆さんがこの地にこれらのことを地上的に解決しようとして降り立つなら恐ろしい混乱に巻き込まれるだけでしょう。
そのままにしておきなさい。そして神様がしておられることを見なさい。神様は霊的なことをなさっているのです。現世的なことではありません。この「現世的なことではない」という言い方を詳細に述べるには一時間かかりますが。神様の主権に基づく働きにおいて今や天の御国を代行するあらゆる現世権力が困惑し混乱し壊されているのをご覧になっていますか。人々は新約聖書の秩序に従った地方教会を設立しようとしています。今日経験するほど地方教会に混乱を見たことは決してないのです。
彼らは様々な事柄(キリスト教運動、キリスト教機構、キリスト教組織)に着手し制定しようとしています。 しかしそれらはすべて混乱に陥り、お互いにどうすべきかわからないのです。私が誇張しているように思うかも知れませんが、私が言わんとしている意味が分かりますか。神様はキリストを霊的にあらわすためにあらゆる現世的な代行者を見ておられるのです。(※God is breathing upon every temporal representation in order to have a spiritual expression of Christ!)それが私たちが言っていることの核心であります。そしてそれがここで言っていることであります。
(かつてなぜイスラエルが退けられたか不思議に思われたことがありますか。その答えは一語に尽きます。排他主義です。「私たちは神の民である。真理は私たちに始まり、私たちに終わる。もし割礼を受けていなければ、神様とともにいかなるところへも決して行くことができない。割礼を受けていない限り救われない。諸国民は犬である(気の毒なヨナはこの考えに取り憑かれていました)私たちはあらゆる神のことばの初めであり、終わりである。あなたがたが私たちの立場に歩み寄らねばならない、さもなければ出て行くべし」親愛なる方々、もしあなたがその考えから抜け出なければ、神様の位置にいることはないでしょう。
排他主義—神様がイスラエルを諸国民の中から取り出し、まったく別な民とし、ご自身の特別な民として選ばれた時、そのことは意図されていませんでした。神様はただ神様がどういうお方か、どんなに偉大なお方かを知らせるために彼らを諸国民の間に植民させようとなさったのです。そして(イスラエル人である)ヨナをびっくりさせ、がくぜんとさせたのは神様はつねにイスラエル以外のどの人にも恵み深くあられ、ニネベにも恵みをもってあたることができたということでした。
だから、この排他主義が貫かれること、新約聖書において主イエス様にとっての悩みにそういうのがあるのです。ユダヤ教という排他主義が悩みであり、そういう戦場があるのです。使徒パウロの生涯の闘いがそれでした。彼はユダヤ教の排他主義というレンガの壁をハンマーで打ちたたいていたのです。そして彼の苦悩のすべてはそれが原因でした。)
この(ようにして生まれた)新しいイスラエルは、むかしのイスラエルよりははるかに偉大です。キリスト、このメシヤはメシヤというイスラエル人の構想よりはるかに偉大であるからです。私たちは新しいイスラエルのとてつもない特質を認識し、伝染病に抵抗するのと同じようにキリストに関連する排他主義に抵抗しなければなりません。
私はキリストの根本的な真理やその人となりを語っているのではありません。私はヘブル人への手紙で紹介されているこのお方の偉大さについて話しているのです。「 神は、・・・この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は御子を何々の相続者とし」何々とは排他的な集まりですか。いいえ「いっさいのもの(万物)」です。
それがパウロの初めから終わりまで書いている偉大な言葉なのです。「いっさいのもの・・・いっさいのもの・・・いっさいのもの」そして最後には「いっさいのものがキリストにあってひとつに集められること」と。もし補足が必要なら、私は決してuniversalism(普遍主義・世界主義)について語っているのではありません。私が語っているのはキリスト以外には何もないという神様の究極的な領域なのであります。(それ以外のものは全部外見上のもの、見かけのものです。その外見がどこであろうとも外見であり、内側には入れないのです。「なぜなら追い出されるのです」それが黙示録の最後の言葉です。「犬ども、(などなど)そして好んで偽りを行なう者はみな、外に追い出される」それは偽りです、だから、外に出されるのです、滅びるのです。)
(今日の箇所は But Ye are Come Unto Mount Zion - Chapter 2 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003198.htmlです。昨日に続いて重厚な内容です。後半に昨日出て来た universalismがまた出てきました。1969年のメッセージの聞き書きだということですからスパークス氏の晩年のメッセージの一つなのでしょう。相当大幅に文章が飛んでいますので理解しがたいところがあると思いますが、ご容赦ください。少しでもご理解のためと思い、カッコ書きの部分は増し加えた部分です。なお※の部分はbreathに二つの意味があり、どちらに取るかで意味が全く異なります。私訳でこのようにしましたが、将来変更するかも知れません。それほど訳出に苦労したところです。どなたかのご教示をお願いします。)
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