このところ、庭に薔薇がそれぞれ、一斉に咲き乱れています。今日の薔薇です。 |
しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。(旧約聖書 イザヤ64:8)
私たちは主の御手の中にあり、悪魔の手の中にいるものではありません。私たちは主の御手のうちにあります。だから、私たちは主の御手のうちにあって、主が背後におられることをご存知である陶器師であるお方の手の中にいるのです。
先ず第一に器は陶器師のうちにあります。そしてそれからゆくゆくは陶器師が器の中にいるのです。言いたいことは、陶器師が(作業を)始める以前に器は陶器師の心の中にあり、心の中で極めて明確に描かれているということです。その器の型は外にあるものでなく、すでに陶器師の中で完成されたものなのです。そしてそれから彼は仕事に取りかかります。やり終える時、陶器師は彼が骨折った器の中にいるのです。彼のうちにあったものが器となったのです。
私たちは人々の働きについて言います。「私はそれを作った人を見ることができる。それは全く彼らとそっくりだ。」「 それはそのようにものを作る誰それさんとそっくりだ。」そうです、主は主の働きの中におられるのです。主は主が造られる器の中におられます。そしてそれはまさしく主がなしておられることなのです。
時にはその粘土は形をなさない固まりに押しつぶされ、ちぎられなければなりません。そのことは主が示そうとしておられる全部を示すものではありません。欠陥や割れ目があるので主はそれを押しつぶして形のないものにされるのです。ひとつの形のないかたまり。けれども再び作業が始まるや以前あったよりももっと完全なもの、すなわち主御自身がうちにおられるものになるのです。
願わくは、主が私たちに試練がどんなものであってもそれに耐える恵みを与えてくださいますように。その試練が、たとえ嵐や炎熱や酷熱のようなものかあるいは主の御手による圧搾のようなものであったとしても、それらのすべては私たちが動揺されることがないように、また地獄も揺り動かすことができないように、主の御力が敵のあらゆる力を圧倒する勝利を示すところへと連れて行ってくださるためであるからです。
(今日の箇所は Rooted and Grounded の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003187.htmlです。 この文章は前回のこの項目の文章の次に位置し、全体としては掉尾を飾る文章です。従って前の文章の訳も読んでいただけると、より文意が通ずると思います。なお今日の標題は「泉あるところⅡ」で二三日前に紹介しました友人が「ものつくり」の達人でしたが、それにちなむものになりました。彼は何よりも型紙をつくることがその作業の最初であり、それが彼の創造の喜びを支えているもののようでした。ましてやまことのいのちの与え主が私たち一人一人にそのご計画をもとに働いていてくださらないはずはありません。「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された」(創世記1:27))
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