何と言う花なのだろう。いつも出入りする玄関の隙間にこんな花が咲いていた |
あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。(新約聖書 マタイ16:23)
(さて、主がここでペテロに言っておられることは、きわめて暗示的であり、私が思いますのに大変な助けになることです。「あなたは私の邪魔をするものだ」主はこの闘いをすでに戦い抜かれ、ご自身の立場をお取りになり、両足を父なる神様の主に対する御意志の道、つまり十字架を選んで御国に達する道へと踏み込んでおられたのです。それは主にとって決して容易な道ではありませんでした。ただ単に十字架につけられる、殺されるだけだったのでなく、罪とされ、神様に見捨てられるという苦しみのともなうものであります。
その道は容易な道ではありませんでした。そしてそれに向かうためにご自身を厳しく支えねばならないものでした。もしそうしなければ、主に影響を与えようとして次々やってくるどれもがそれを解決し根気強くあたらねばならない新たな必要をもたらすものだったからです。このようにしてそのことは主にとって困難で厳しいものであり、決して助けとはならなかったという意味で、主の邪魔になったのです。
ペテロに関して言えば、彼は自分が言っている意味を知らないで(主を)助けようとして意図されたことかも知れません。しかしその背後に主はすでに解決済みの争点、過去の闘い(訳者注:荒野での誘惑における闘いのこと)が引き起こしたものに過ぎないこと、それゆえに父なる神様の御意志を意志として進まれる主の邪魔をし、その道をもっと困難にしようと立ちふさがるものだと見抜かれたのです。)
私が思いますのに、そのことは私たちに包括的に、また神様の御意志に関連する多くのことがらの上で一つの立場が取られねばならないことを強調しているのです。私たちはそのような立場を大変明確にかつ積極的に取らねばなりません。そしてそれから時々あれやこれやの方法で敵であるサタンの努力が私たちの心を変えたり、その道を歩もうとする私たちを弱くさせたり、別の誘いをなしたり、様々な争点や利害の光の中で考え直させようとするだろうということを認識していなければなりません。
私たちはこのような反対、障害、妨害に遭遇することでしょう。しかしそれに対して極めて無情にならねばならないのです。ある意味で、主がペテロを取り扱われた方法は、無情なものでした。まさしくそれに直面しての主の態度にはいささかも弱さはなかったのです。そのことの本質を見抜かれて、主は、もし自分がその誘いに屈してしまうなら、エルサレムにも十字架へも赴けないだろうということをはっきりと知っておられたのです。
私たちがこれこれは神の御意志の道であると決着をつけたかどうかが問題です。そしてそれから、生起するあれやこれやは長い目でみて私たちが達し得ず、神様の御意志を行なえないことを意味するのでしょうか。もし、そうなら、きわめて無慈悲に扱い、その道から出て、私たちはそれを追いやらねばなりません。十字架は私たちのところに多くのつながりと様々な言い分のうちにやってくるのです。
それからもし私たちが本当に(主が)ペテロにされたように、霊的な力のところへと切り抜ける意志があるなら、敵であるサタンの取っている立場は絶えず見捨てられねばならないですし、拒絶されねばなりません。敵が私たちを破壊し、また破壊する力を与えるものは敵から奪い取られねばなりません。私たちは敵にその立場を与え、私たちに関する神様の目的を打破しようとして起こって来るどんなことに対しても無慈悲であらねばなりません。この天と陰府の力との闘い、神様とサタンとの闘いは私たち一人一人のたましいのなかで続くものです。しかし私たちにとっては慰めがあるのです。それは私たちには永遠に生きておられとりなしをしてくださるいと高き祭司(主イエス・キリスト)がおられるということです。私たちには私たちのために主イエス様が絶えずとりなしをしていてくださるという最大の強みがあるのです。
(今日の箇所は The Battleground of the Soul の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003189.htmlです。ちょっとしんどいきびしい内容ですが、マタイ16:13~25、ルカ22:31~34の聖書そのものをお読みくださるようにお勧めします。)
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