天を向く 山帽子雨 も光も 上から受ける 術(すべ)心得て |
あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけです。(新約聖書 マタイ23:9)
恐らくは、あなたも私もまた主の民も、いずこにあっても、終わりの時に何よりも知っていなければならないことの一つは私たちが天に属するものであるという事実でありましょう。あらゆることにおいて試されることでしょう。しかし、その試みは目的を治めているのは始めにあるという法(のり)によって、すべてが主の御名を必要とするものであります。
始めから、主の民は天国の民であり、キリストによって天にある彼らのためにはすべてが備えられており、天にあるキリストから引き出されるものでした。すべての彼らの支配、道筋、力はキリストから生じ、天にあるのと同じように、キリストのうちにありました。主は戻って来られ、再三再四その始めによってすべてのものを試され、終わりには、その試みは非常に厳しく適用されるのです。私たちはことがらのうわべの形を見ている者です。それらは地上のものであり、人が造り、人が組み立てたものであり、霊的なものの模造品か代用品であって、まさしくその根本において壊れ、ふるわれるものであります。私たちの働きである組織は壊されるものであります。国家においてもその枠組みは破壊されることでしょう。ただひとつ残されるものは主の民に他なりませんが、彼らもまた恐らく散らされることでしょう。
その時、この中でどれだけが地上にあってキリスト(のもの)であるかが試されることでしょう。もし、頼るものが、秩序や教会や機構であり、さらにはそれが集会や修養会であっても、その多くのものがそれ自身がキリスト者生活を支えるもののように見えるものだったとすれば、それらが消え去り、壊される時、疑問がわきあがってくることでしょう。ここにキリストのどれだけが存在するのか、またキリストの基準は何であり、天におられるキリストとはどんな人なのか、と。
あなたがたは、かつてそれがどれほど弟子にとっての危機であったかを知っています。弟子たちは三年間主とともにありましたが、表面的な分離(にもかかわらず)、依存、感覚的な生身の体にあるつながりがありました。日々の生活の中で彼らは幾分かは大言壮語を言うこともできましたし、大きな罪の告白や信仰の告白をすることができました。また主については主がどなたであるか、主について自分たちがどう思っているか、何を信じているか、自分たちは主に何をしたいかを公然と言うことができました。
その時に、主が彼らから取り去られたのです。一体何が残されましたか。(もはや)キリストはおられません。いのちはありません。生きる目的がありません、すべてのものがなくなったのです。感覚的ないのちが消え失せ、外面的な秩序が終わり、何ものも残されなかった時、彼らは絶望し、その信仰は失せ散じました。
今日もそのことは大いに考えられます。私たちに破滅がやって来る、もはや主のために何をすることもできず、みことばを読むことも祈ることさえできなくなります。そして、通常の祈祷課題もこなすことができず、もはや主の民と会うこともできなくなると、やっとどれだけ多くのものがあるか知るのです。主の民のほとんどは、今やそこにさしかかっているのです。(地上の大きな広がりを越えて神の民は動かされ、散らされ、表面的なあらゆるものを剥奪されるのです。
問題は、なぜ主はそれを許されるのか、であります。主が賢明なお方であり、力があり、恵み深いお方であるなら、なぜそうなさるのか、であります。それは、どれだけ天上のキリストが神の民にとって大きいものであるか、そして地上の物事の秩序に、キリスト者の秩序においてさえ、どれだけ多く依存して来たかを悟るためであります。
「初めからあったもの・・・小さい者たちよ。今は終わりの時です。・・・神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」皆さんはこのつながりを理解していますか。もし終わりに、最後の時に、それが初めからあったもののようであるなら、いつまでも続くでしょう。けれどももしそうでなかったら、それは消えるでしょう。この主との天的な関係についての全体的な問いは大変大きな事実を探るものであります。その事実とはキリストがあらゆるものを天に移すということ、及び、主との天的な結びつきの中にあるいのち以外はいかなるいのちも、どんな時にも試みに立ちおおせることはできないということです。
私たちは主に対して、主が、もし本当にそれが真実であるなら、これを取り、私たちを探ってくださるようにと求めたいです。私たちの幾人かは満足することでしょう。なぜなら、私たちはこのことは正確には主が私たちを取り扱っておられることだと知るからです。なぜ孤独があるのですか。なぜ試みがあるのですか。なぜ霊的な生活に寂しさがあるのですか。私たちを事がらから、キリスト者の事がらでさえ、そこから救出して、主御自身のもとへ行かせるためであります。その結果、キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるという神様の目的が叶えられるためであります。事ではありません。キリストです。キリスト教ではありません。キリストです。キリスト者の働きではありません。キリストであります。)
(該当箇所http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003182.htmlよりやや長目に訳しましたが、この文章はまさしく That Which Was From The Beginning - Chapter 1 の第1章の末尾にあたる文章です。)
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