2011年5月30日月曜日

これは小さいことだろうか

これらの小さな始まりをさげすんではならない。なぜなら、主がその働きが始まったことを喜んでおられるからだ。(旧約聖書 ゼカリヤ4:10 NLT訳による)

(捕囚として連れて行かれたたくさんの人の中で、わずか4万2千何がしかの人たちだけがバビロンでの快適で安楽な生活を捨て、神様の証が確立できる土地(エルサレム)に戻り犠牲を払う用意がありました。彼らは数として少数で弱く隣人からさげすまれていました。その彼らが荒れ果て、やせ衰えた土地に戻って来たのです。実に「小さな日」でありました。しかし、彼らはさげすまれることはなかったのです。なぜなら、神様が彼らに真から神様の栄光を求めるようにと、後ろから支えておられたからです。)

神様の栄光を証する上でどんな小さなこともありません。私たちはたとえ他者によってさげすまれることがどんなに重要であったとしても、小さいこととして無視してはなりません。かえって神様が人々をご自身の栄光をあらわそうとして召し出された時はいつでも、自分自身の栄誉を求めない人々を選ばれたということに気づかなければなりません。

神様はつねにご自身の栄光の道具とされようとする人々から強いてその栄誉を奪われて来たのです。エジプトの与えるものをすべて持っていたモーセは40年間荒野に退けられ空しくされ、神様の栄光を示す道具となる前に、自らには完全に資格がないと告白するまでになったのです。イスラエル人の中にはこの新しくされた謙遜なモーセを蔑もうとした時がありました。その時、モーセは自らの力で立ち向かおうとしませんでした。しかし神様はすぐにイスラエル人全員にモーセをさげすむことがどんなに正しくないかということを鮮明にされたのです。神様の栄光は天幕の入り口に現われ、人々への挑戦がなされたのです。

主が私たちを充分にからっぽにし、弱く、小さくされるのには、時々年数がかかります。その結果私たちは自らの生活のうちに神様のご栄光を、すなわち神様が私たちを取り扱ってくださったことをよく説明できる事実をあらわすことができるようになるのです。神様が私たちを十分に小さくされ、また十分に空っぽにされるなら、その時は御霊が栄光のうちに働いてくださる機会なのであります。

(今日の箇所は "By My Spirit" の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003204.htmlです。)

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