異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき・・・(新約聖書 ガラテヤ1:16)
パウロの時代以来、キリスト者の活動の大変多くの部分が運動を押し進め、教えを広め、制度に関する諸関心を発展させることでありました。(しかし、本来)それは運動ではありませんし、地上に運動を確立し、追随者や信奉者や構成員、支援を獲得するためでもありません。たとえその制度を教会と呼ぼうとも、それは制度ではありません。教会はイエス・キリストの啓示から離れては、神様の考えの中に存在しません。それは神様の愛される御子であるキリストがその教会という存在によってどれだけ明らかであるか、その尺度に応じて判断されるものです。
もし、証というものが特別な教えの形態や体系化された教義を意味するならば、証ではありません。そうです。証ではありません。私たちが「証」について話す時、私たちがどんなことを意味しているのか注意を払うことにしましょう。私たちは心の中でにいくつかの真理を配列し、一定の言い回しで表現されているそのような真理で、言葉の形式を持っているので「証」について語っていると思うかも知れません。しかし、それはその意味で証ではありません。
それは宗派ではありません。宗派を超越しているのでもありません。宗派間のことでもありません。キリスト教ではありません。「働き」ではないのです。ああ、私たちはいつも「働き」について話します。たとえば「その働きはどのように続いていますか」とか。私たちは働きに身をささげ、働きに関心を持ち、働きのために出かけます。それは布教活動ではないのです。
それはキリストです!「御子を宣べ伝えさせるため」もしそのことが中心となり卓越したままであるなら、あらゆるこれらの恐ろしい、打ち壊すようなねたみも、決して出る幕がないことでしょう。今日のキリスト教界に存在するあらゆる不幸な混乱は決して起こらないでしょう。不幸な混乱は、活動自身の特別なもの、運動、布教活動、教え、証、仲間意識がキリストに取って代わってきたからです。人々はそれを押し進めるために、またその計画を立て確立するために出て行きました。そのことは悔い改められていないでしょう。それにもかかわらず、今日、キリストよりも私たちの働きだというのが本音なのです。
今や、愛する皆さん、心の内側からする啓示こそあらゆることがらの治療です。私が言うのは余りにも厳しいことでしょうか。また物事を徹底的に追求し過ぎなのでしょうか。それらのすべてが存在するのは内側に照射するキリストの適切な啓示が欠けていることを表しているのです。
(今日の箇所は The Centrality and Supremacy of Christ の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003191.htmlです。今日の箇所も随分と冒険した訳になっています。あるいは幼児さながらの訳かも知れません。練達した英語力のある方の指導を仰ぎたい思いです。なお3/28の文章は今日の文章に続く文章です。)
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