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2011年5月5日木曜日

Boundless Heavenly Resources

三日連続で薔薇になりました。なお昨日のは薔薇は薔薇でも「はまなす」でした。
私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。(新約聖書 ヨハネ1:16)

私たちは自らの生活や奉仕(宣教、天からの召しである仕事)において、キリストとの結びつきの中で、天から無尽蔵でかつ枯渇することのない豊かさを経験するのです。これが強さの最大の秘訣であります。

この豊かさは、キリストが人の子としてお取りになったのと同じ位置に私たちがいるなら生ずるすばらしであり、とてつもない強さの源であります。その位置こそ限りなく天から豊かさが与えられるところであることを私たちは知っています。私が考えますのに、私たちはそのような地点に漸進的にして初めて達するのであり、決して一時に達するのではありません。私たちが訓練の道を歩むことによって初めてそのところまで来ることが出来るのです。その訓練とは私たちが完全に依存するという形を取るものであります。まだ訓練自身の目的である空になることも壊すこともなく、神様の恵みがともなっているのですが、その神様の恵みとは私たちが空になりさえすればキリストの豊かさがふんだんに注がれるものであるのです。

消極面はもちろんのこと積極面があります。神様は究極的な目的であるお方として消極的な事柄の信者ではありません。けれども神様が壊し、空っぽにされるのは積極面で何かをなさるのです。その積極面はたえず私たちを驚かしますが、私たちはいつも次のように言わねばならないのです。「そうだ、あれは主だったのだ。自分たち自身のせいでなかったのだ」と。私たちは漸進的にその訓練の道をたどってくるのであり、あらゆる人の力よりはるかにまさる天からの豊かさが備えられていること、そしてこれらの豊かさこそ最も適切なものであると知るのです。

これが霊性を構成するものです。すなわちこれが生活や奉仕を霊的にするのです。天から豊かさを引き出し、天から出た者としてそのいのちを生きるのです。それが霊的であることです。霊的ないのちと霊的な歩みにより成り立っているのです。その豊かさは自身からもこの世からも引き出されません。全部上から引き出されるのです。その支配は地上の人間や世からのものではありません。上からのものであります。万事は上から完全に来るものであり、全く人からのものではありません。したがって結果としてその生活と働きは霊的なものになるのです。

( 今日の文章http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003175.htmlはたまたま以前訳したものと同じ箇所になっていましたが、それを無視して再訳しました。以前の箇所は2/18「無尽蔵な天の祝福をくださる父なる神様」となっています。文章全体は Boundless Heavenly Resources です。)

2011年2月18日金曜日

無尽蔵な天の祝福をくださる父なる神様

キリストに顔を向けようまっすぐに眼(まなこ)を開き心をひらき(後藤瑞義)
私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。(新約聖書 エペソ1:3)

私たちが生活したり、私たちが奉仕(宣教や天職にたずさわるにあたって)するにあたって必要とする力は、天的であり枯渇することなく腐朽であり、かつ私たちが自由に用いることのできるものであり、それはキリストとのつながりの中ではじめて与えられるものであります。これが(主イエスを信ずる者の)最大の強さの秘訣です。

無尽蔵に天からの豊かな富が得られるところ、それはキリストが人として歩まれた地点と同じところに私たちがやって来るということですが、そのことが大変なことであり、あらゆる強さの源なのであります。そして私が思いますのに、私たちがそこに達するのは漸進的であり、決して瞬時ではないのであります。

私たちはその地点に(キリストの)弟子となることによって初めて近づけるのです。そしてその弟子の道とは自らが空しくなりまた破産してはじめて完全に依存すること、すなわち神の恵み(すなわち神の憐れみ)によって成し遂げられるものです。私たちが空っぽになる時、主の満たしはふんだんに提供されるのです。

消極的な面はもちろんですが、積極的な面もあります。神様は究極的な目的者である方として決して消極面に止まられないお方であります。けれども主が壊され空しくされる時は私たちを驚嘆させるのに十分な積極的な何かをなさるのであり、私たちはいつも、そのことは主のおかげでした、私たち自身によるものではありませんでした、と言わざるを得ないのであります。

私たちは徐々に弟子として歩むことによってあらゆる人間的な可能性に立ち勝るものが天にはあることを知るようになり、これらの天にある富が働くのです。これが霊的なものの中核にあることです。これが生活や奉仕を霊的にすることです。それは天にある富を引き出すことであり、天からのいのちを生きることであります。そのことを霊的と言うのです。

霊性は霊的ないのちと霊的な歩みに現されます。その源泉は人自身や世から引き出されません。それらは全部上から引き出されるものです。その支配権は人からのものでも世からのものでもありません。ただ上からのものです。万物は完全に上からのものであり、全く人からではありませんので、その結果として生活や働きが霊的になるのです。

数人の方は霊的と言うと何か神秘的なことまたは架空の「何か」のことと思われるようです。たとえば霊的であるとは現実から遊離した心の状態だと思われるようです。よろしいでしょうか、霊的であるということはそもそも心の状態ではないことは確かなことなんです。

私たちが今話しているのは心が平安であり天的であることについてなのです。(御霊の)実であるものとしてこの種の何かがありますが、決して霊的であることは不透明で神秘的であったり、また抽象的であったりすることがらではありません 。かえって最も実際的なことがらなのです。

男性でも女性でも神様によって神様のお働きの一翼に加わる召命を与えられ、その求めに直面して自分にはその使命を実現するだけの能力も手腕も力もなく、全く不可能であり、試しにやってみるだけでも馬鹿げたことであり、理に合わないだろうと合点する時、そしてそのような状態でこの要請に答えるに十分なのは生けるキリストを内に持つことだと悟り・・・信仰によってキリストにすがりその使命を果たそうと前進するなら・・・そのことが霊的だということです。

それは実際的であり、途方もなく実際的であります。聖書記事はそれが実際的であることを明らかにしています。天的に事がなされるのはそんな風であります。キリストの霊性は日常生活の実際的な事から離れたものではありませんでした。キリストは日常生活の実際上の細々したことがらを天的な力や富を用いて行われました。

(今日の箇所は Boundless Heavenly Resources の抜粋引用訳です。この文章は1月14日のブログでも紹介しましたが、前回の文章の前にあたるものです。以下のサイトの原文より大幅に最初から訳してあります。http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003047.htmlただし相当程度、意訳しましたのでその点はご了解ください。なお今日の写真はまたしても鳥になってしまいましたが、今盛んにあっちこっちの木々に「実」を求めてやってくるヒヨドリです。画面が暗く姿がはっきり見えないのは残念です。でもクリックされると拡大されてヒヨドリと梅の花が点描して見えますよ。また掲載した短歌は後藤瑞義さんのものです。私たち一人一人はすべからくこうありたいものです。この他にも心暖まる短歌が掲載されています。ブログで公開されていますので、拝借させていただきました。後藤さんにはこの場を借りてお礼を申し上げます。)

2011年1月14日金曜日

天的な富

川岸に ぼけの花咲き 温暖化 (1月8日 古利根川)
私は、私を強くしてくださる方(キリスト)によって、どんなこともできるのです。(ピリピ4:13)

キリストの霊性は毎日の生活の実際的なこととかけ離れたものではありませんでした。キリストは天的な力や富を用いて日々の生活の実際の用に当たられたのです。皆さんは戸を拭いたり、洗濯をしたり、床を磨いたり、またこういう家の中のありきたりの仕事どれ一つを取っても霊的になし得るのです。ところが人々は霊的な働きと普段の働き(たとえば家の中の仕事)を二つに分けて考えているように思われます。人々は霊的な働きと他の働きと(分けて)話します。皆さんは天的な富を用いてどんなまっとうなこともできるのです。そしてそうすることが証になるのです。

ほとんどの人々が天的な富を引き出して(生活の)基盤となる働きをなす機会を逃しています。大部分の人にとって仕事は何ほどか規則的なものであり、毎日繰り返されるものです。ところが極めてしばしば人々は天的な富を用いては全くできないと感じています。彼らはもし自分たちが実行するにふさわしい霊的な職務であれば(たとえば出かけて行って、集会に出たり、霊的なことについて誰かに話したりするようなときであれば)主の助けを借りることもでき、そうすれば主は彼らを通して働かれると考えがちです。ところがありふれたことや普段の仕事となるとそのような考え方が極めてしばしば完全に姿を消すのです。

しかし、まさしくその同じ富は私たちが霊的な働きと呼んでいる事柄と同じように普段の仕事にも適用されねばならないのです。霊的な基礎の上になされることがすべてであり、それが証となるのです。日常生活の働きをやりおえることは人間の日常的な力にまさるものを何ほどか要求しているのです。霊性は天からのものとして万事に適用できるのです。私たちは霊的なことと「それ以外のこと」とを区別をしないように、どんなふうに線引きをしているか注意しようではありませんか。


I can do everything through Christ, who gives me strength. (Philippians 4:13 NLT)
Christ's spirituality was not that He was remote from what was practical in everyday life. It was that He was bringing heavenly forces and resources to bear upon the practical matters of everyday life. You can wash doors, or clothes, or floors - or do any of these ordinary domestic things - in spirituality. People seem to think that spiritual work and ordinary work - household work, for example - are two different things. They talk about the spiritual work and the other work. Now, you can bring heavenly resources in to do anything that is legitimate, and the doing of those things may be a testimony.

The majority of people have no occasion to draw upon heavenly resources for a platform ministry. For the most part their work is of some regular, daily kind; and very often they feel utterly unable for it, and they are tempted to think that if they had some spiritual ministry to fulfill - if they had to go and take a meeting or speak to some souls about spiritual matters - they could make a claim upon the Lord for help and He would carry them through. For the trivial round and common task such a thought is all too often wholly absent from the mind. Now, exactly the same resources have to come into the ordinary work as into what we call spiritual work. It has all to be done on a spiritual basis and therefore to be a testimony. To get through an ordinary day's work often requires something more than ordinary human resources. Spirituality consists in our doing everything as out from heaven. Let us be careful how we draw a line, lest we make a distinction between the spiritual and "the rest."

By T. Austin-Sparks from: Boundless Heavenly Resources