キリストに顔を向けようまっすぐに眼(まなこ)を開き心をひらき(後藤瑞義) |
私たちが生活したり、私たちが奉仕(宣教や天職にたずさわるにあたって)するにあたって必要とする力は、天的であり枯渇することなく腐朽であり、かつ私たちが自由に用いることのできるものであり、それはキリストとのつながりの中ではじめて与えられるものであります。これが(主イエスを信ずる者の)最大の強さの秘訣です。
無尽蔵に天からの豊かな富が得られるところ、それはキリストが人として歩まれた地点と同じところに私たちがやって来るということですが、そのことが大変なことであり、あらゆる強さの源なのであります。そして私が思いますのに、私たちがそこに達するのは漸進的であり、決して瞬時ではないのであります。
私たちはその地点に(キリストの)弟子となることによって初めて近づけるのです。そしてその弟子の道とは自らが空しくなりまた破産してはじめて完全に依存すること、すなわち神の恵み(すなわち神の憐れみ)によって成し遂げられるものです。私たちが空っぽになる時、主の満たしはふんだんに提供されるのです。
消極的な面はもちろんですが、積極的な面もあります。神様は究極的な目的者である方として決して消極面に止まられないお方であります。けれども主が壊され空しくされる時は私たちを驚嘆させるのに十分な積極的な何かをなさるのであり、私たちはいつも、そのことは主のおかげでした、私たち自身によるものではありませんでした、と言わざるを得ないのであります。
私たちは徐々に弟子として歩むことによってあらゆる人間的な可能性に立ち勝るものが天にはあることを知るようになり、これらの天にある富が働くのです。これが霊的なものの中核にあることです。これが生活や奉仕を霊的にすることです。それは天にある富を引き出すことであり、天からのいのちを生きることであります。そのことを霊的と言うのです。
霊性は霊的ないのちと霊的な歩みに現されます。その源泉は人自身や世から引き出されません。それらは全部上から引き出されるものです。その支配権は人からのものでも世からのものでもありません。ただ上からのものです。万物は完全に上からのものであり、全く人からではありませんので、その結果として生活や働きが霊的になるのです。
数人の方は霊的と言うと何か神秘的なことまたは架空の「何か」のことと思われるようです。たとえば霊的であるとは現実から遊離した心の状態だと思われるようです。よろしいでしょうか、霊的であるということはそもそも心の状態ではないことは確かなことなんです。
私たちが今話しているのは心が平安であり天的であることについてなのです。(御霊の)実であるものとしてこの種の何かがありますが、決して霊的であることは不透明で神秘的であったり、また抽象的であったりすることがらではありません 。かえって最も実際的なことがらなのです。
男性でも女性でも神様によって神様のお働きの一翼に加わる召命を与えられ、その求めに直面して自分にはその使命を実現するだけの能力も手腕も力もなく、全く不可能であり、試しにやってみるだけでも馬鹿げたことであり、理に合わないだろうと合点する時、そしてそのような状態でこの要請に答えるに十分なのは生けるキリストを内に持つことだと悟り・・・信仰によってキリストにすがりその使命を果たそうと前進するなら・・・そのことが霊的だということです。
それは実際的であり、途方もなく実際的であります。聖書記事はそれが実際的であることを明らかにしています。天的に事がなされるのはそんな風であります。キリストの霊性は日常生活の実際的な事から離れたものではありませんでした。キリストは日常生活の実際上の細々したことがらを天的な力や富を用いて行われました。
(今日の箇所は Boundless Heavenly Resources の抜粋引用訳です。この文章は1月14日のブログでも紹介しましたが、前回の文章の前にあたるものです。以下のサイトの原文より大幅に最初から訳してあります。http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003047.htmlただし相当程度、意訳しましたのでその点はご了解ください。なお今日の写真はまたしても鳥になってしまいましたが、今盛んにあっちこっちの木々に「実」を求めてやってくるヒヨドリです。画面が暗く姿がはっきり見えないのは残念です。でもクリックされると拡大されてヒヨドリと梅の花が点描して見えますよ。また掲載した短歌は後藤瑞義さんのものです。私たち一人一人はすべからくこうありたいものです。この他にも心暖まる短歌が掲載されています。ブログで公開されていますので、拝借させていただきました。後藤さんにはこの場を借りてお礼を申し上げます。)
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