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2011年9月13日火曜日

御霊の一致

「ブルースター」の種、造化の妙。拡大してご覧ください!
 平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。(新約聖書 エペソ4:3)

(          ひとつになってともに住むこと
 さて私たちは祝福の第二の点にやってきました。「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。」(詩篇133:1)
私たちは祝福をその例示、前兆のうちに、すなわちあらゆる心を結びつけ、すべてを一つにし、すべてのものの個性や、すべてのものの分離から引き出すシオンをこれまで見て参りました。さて、心が主イエス様に集められる時、私たちは分離や私たちを別れさすあらゆるものに抗する最大の力と動力を身につけるのです。 そして主イエス様が私たちの中心であり、卓越したお方であり、私たちの心が出て行くのは主イエス様に向かう時であるなら、私たちはひとつになるのです。あなたは個人的な関心と同時に主の関心を求める心配りを持つことはできません。ダビデはそのことを完全に明確にしています。「わが家の天幕」(訳注:詩篇132:3)それはひとつのことなのです。そしてもし私がそのことをよく知っているなら主のために家を建てないでしょう。もし家を建てるなら、主の安息のための場所を見出さないでしょう。もし私が私の願いに満足することを求め、私の目を眠らせ、私のまぶたをまどろませるなら、主の関心は二義的になるでしょう。しかし私が自分のことは、個人的であるすべての事柄と一緒に脇に置き、主に集中し、他のすべての人もまたそうする時、私たちはキリストにある完全で中心である結節点を見出すのです。それが一つになって住むということであります。
 さてエペソ4章は詩篇133篇の偉大な新約聖書の解き明かしであります。「ひとつのからだがあります・・・」イタリック体なしにこのひとくだりを読んでください。「平 和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。からだは一つ、御霊は一つ・・・召しのもたらした望みが一つ・・・主は一つ、信仰は一つ、バプテスマ は一つです。 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。」(3節〜6節)

適切に組み立てられた一つのからだとしてキリストにある一体性が描かれているということです。どのようにしてこの完全な一体性は到達されるのでしょうか。独立した個々人であるすべてがなくされることにより、また主が焦点の中心であることにより、そしてそのように一体性を維持する熱心さが与えられることによってであります。あらゆる個性的なものは閉め出され、つねにキリストとキリストの関心が視野に保たれるのであります。「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」(13節)そのように一つになってともに住むことは、キリストが私たち全員の関心事の唯一で中心的な存在であることの結果であります。このことは幻として、想像上の単なる理想ではなく、極めて実際的なことであります。

あなたがたと私は、分裂が働く要素があり、私たちを引き離すように私たちの間に忍び込んで来るものがあることを知ることでしょう。(悪魔である)敵はつねにそうすることを求めています。主の民の間に入り込み、障害を築こうと暴動を起こすことは数えきれません。時には彼らは抽象的な人格以上のものであります。それはあなたがたがつかまえ、説明し彼らがどんなものであるかを言うことが決してできないものであります。それはまるで何かの感覚のようなものです。時にはそれはもっと積極的であり、何かについて明白で限定した誤解が言われたり、なされたり、つかまえられたりします。そして、もちろんそのことはつねに(悪魔である)その敵によって誇張されるのです。

御霊の一致を保つためにこの種のことはどのように扱われるのでしょうか。正しくこの基盤にだけ立って適切に私たちが次のように言うことです。「このことは主の関心ではありません。これは主にとって価値あることでは決してあり得ません。このことは主の栄光と満足とはなり得ません。このことは主にとって痛み以外の何ものでもありません。」私が問題に感ずるかもしれないことは考慮すべきことではありません。私は間違った当事者でさえあるかもしれません。しかし私は間違っており、傷ついていると感じていたいのでしょうか。私は自らの威厳の上に立とうとしているのでしょうか。私は間違っていたので閉じこもり消え去りたいのでしょうか。それが生まれながらの性質が持つであろうやり方ですが、私は次の態度を取らねばならないのです。

「主は失うために立っておられる。主の御名は苦しめられるままである。主の関心はこの中に巻き添えにされている。私はこの生まれながらの性質を征服しなければならぬ。私はこれに勝たねばならぬ。私はこのことを振り払わねばならず、この兄弟姉妹に向かう自らの態度や、自らの行為、自らの感情に影響を与えることを許してはならない。」主のために私たちが感じることや私たちの権利さえも、そして主の証を傷つけようとするこのような敵の努力を征服するということも脇に置かれねばならないのです。

それが一致を保つ熱意を与えるのです。それが分裂にまさる勝利の力であり、一致の勝利であり、主はそこに祝福を命じておられるのです。それが永遠のいのちへの道です。それ以外の道は明らかに死の道です。そしてそれが敵を尻目にすることであります。その違いが明確にされるまでは、すべては死であり、すべては衰え、枯れ果てるのです。いのちは一致によります。 一致は私たちが個性的などんなものも捨て去るお方として場所をおあずけするキリストのうちにふさわしく見出されるだけなのであります。私たちは他のどんなもののためにもしてはならないのです。見える形で人のためにしてはならないのです。私たちはキリストのためにそうするのです。(その結果)敵は敗北させられるのです。

(今日の箇所は All Things in Christ - Chapter 8 の 抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003363.htmlです。Sparks氏の短い評伝をまもなく、もう一つの「泉あるところⅡ」に載せさせていただくつもりでおりますが、今日のくだりなどは読む人にとっては七面倒くさいと思われ不必要と思われるかもしれません。しかしそれだけ彼が実際の教会生活の中でいかにみことばに立って戦っていたかがわかるものでありまして、訳出には苦労しましたが、その彼の戦いのほんの一端に触れさせていただいた思いがしており、私にとってはいい学びになりました。訳は相変わらずおかしいところがあります。昨日は 電話で当方の訳の違いを指摘してくださった方が初めてあらわれました。ありがたいことです。)

2011年4月3日日曜日

いのちの二重の法則

わたしはその季節にしたがってあなたがたに雨を与え、地は産物を出し、畑の木々はその実を結ぶ。(旧約聖書 レビ記26:4)

贖われたいのちは私たちのうちでどのように働くのでしょうか。二つの方法があります。一方で、私たち自身の生まれながらのいのちを切り捨てて、神との交わりの基盤として働くのです。そのことは大きなことであります。そして、大きな根底からなされる働きであります。
 霊にあって幼く未成熟なかなり多くの人は、自分自身の生まれながらのいのちや精力や熱心さでことを行ないます。このようなものがすべて、生活や奉仕の双方において神との交わりの基盤となっています。それが未成熟さのあらわれです。私たちは、生まれたばかりの信者がつねに大変熱心であり、熱心さが神とのつながりの本当の強さだと思い、事実そのことが神との関係になっていることをかなりよく知っています。
 今、三月の風が吹き始め、花がさらってゆかれると、このような人々は冬が夏の代わりにやって来たと思います。彼らはこのことですべてのものをなくしたと思います。彼らは尋ねるのです。一体、何が私に起こったのでしょう、と。恐らく賛美歌の次のようなフレーズが口から漏れて来ることでしょう。
「どこに花はあるのかしら、私が知っていたあの花は。始め主にお会いした時のあの喜びの花は?」


しかし、)花が咲き終わるまでは果実は取れないものです。花が風に吹き飛ばされるのに続くのは夏であって、冬ではありません。もちろん私たちの誰もがちょうど良い頃合に花が咲くのを見ることを好むのですが、もし夏中ずっとそこに花が咲いているとしたら、奇妙に感じられることでしょう。私たちは言うにちがいありません。「ここには良くないものがある。花は終わったころなのに。」(ところが)近寄って見て、そこに期待に満ちたもの、はるかにもっと価値のあるもの(実)を見るのです。

このような早咲きはいのちのしるしであるかも知れません。しかし、いのちそのものではありません。早いいのちのしるしは早く春が来たのであって、冬が過ぎ、蘇生が緒についたことを示すのです。それはしるしであって、いのちそのものではありません。こういうように早く芽生えて来る(人間の)熱心さというものは、私たちが神様と結びついているという本当の基盤によるのではありません。私たちの中で起きていることのしるしであって、霊的な幼稚さをともなって過ぎ去るものです。このような熱心さは私たち自身からのものであり、神からのものではありません。神はしるし以上のものであります。神は駄目にはなさいません。いのちは働いています。そして、いのちはいのち自身をより強く、より深く、心の底からあらわされるものです。

このいのちの全行程を通して、私たちは、結局、神と関係がある私たちのものから、私たちのうちにある神ご自身へと変化が生じていることを学ぶ必要があるのです。 確かにたくさんのものがあって神と関係があります。しかし私はそれが終わりを正しく推し測るものになるようにと望んでいます。依然として私たちの心の中にあることは神のことを自分たちがなしているということです。私たちはそれらが神の考えであり、神の精神だと考えるのかもしれませんが、そこにはまだ神のことにかかわる人間の心やうまく作り上げた私たち自身の姿があるにすぎないのです。私たちは新しい主に関する考え方に場所を譲る必要があります。意志においても心においても、それは同じことであります。
 私たちはからだのことを念頭において今話し始めています。いのちの法則は主との関係において私たちの生まれながらの基盤を動かすように働きます。その結果、肉体の領域においてさえ、主のことに関わるために主のところに来れば、主が天的な事柄と関わる私たちのからだ的ないのちとさえなってくださるのです。そのことは事実です。そこには一方で私たちが漸進的に別のところに移らされているという証があるのです。つまり主の事柄において私たちは自分自身のうちにはいのちがなく、肉体にあってもできないということに直面させられているのです。それはつねに神の観点からそうであったのですが、私たちはかなり多くのことをなしていたと思ってきたのです。なぜなら私たちが駄目になり、生まれながらの自分では何もできないということを知るところまで動かされていなかったからです。ところが今や多かれ少なかれ私たちは神のことに関して私たちは、からだの面でも、出来ないことを悟るのです。

一方で永遠のいのちが私たちの生来のいのちを切り離すために神様とのつながりを持つ原理として働くなら、他方でその働きは全く素晴らしいものであります。それが「主のなさることは私たちの目には素晴らしい」ということです。

主は私たちの肉体のいのちとしてお入りになり、私たちが最善の時にできたかもしれないが決してできなかったこと以上のことをなさります。確かにそれは現在の可能性よりもはるかにまさったみわざです。なぜなら主はこれまで私たちは人間として最善であっても何者でもないということを知らしめて来られたからです。 いのちはそのことをなすのです。(主の与える)いのちはひとつの原理(肉の原理)を追い出し、別の原理(いのちの原理)を与え、いのちが働くようにその余地をつくるのです。

(今日の箇所は All Things in Christ - Chapter 9の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003114.htmlです。2/16「豊かないのちとは」で一部すでに訳出済みのところなどを引用しつけ加えましたのでかなり長文の訳になり、かえって意味が不鮮明になってしまいました。お許しください。)

2011年3月8日火曜日

宣教とは何か

パスカル(1623~1662)
あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。(新約聖書 ヨハネ5:39)

宣教は「いのち」のあらわれであり、型通りの仕事に従事することではありません。私はかつて宣教を一定の働きとしてとらえ、仕事としてするもの、つまりは宣教師としての職務をまっとうすることだと考えていました。確かに人はそのことに関心を持ちました。

かなりたくさんの人が(このために)働き骨を折り、心を砕き、神様の召しと自覚していることに背かないように、その定められた仕事から離れることがないようにと心がけています。他の多くの人は宣教が生計の手段であるという理由でそこから離れることもできず、彼らもまた心を砕いているのです。

しかし、それはすべて偽りです。宣教は決してそのような体制ではありません。宣教は「いのち」の現れであり、別の言葉で言うなら、内住のキリストが完遂してくださることだと言う以外にないのであります。その基盤に立たず、別の基盤に立って宣教している男女の前には困難が横たわるものです。

主が私たちをとらえ、私たちが本当に主を信頼し、その(内住のキリストが完遂してくださるという)基盤に立つなら、主は私たちにとって十分な宣教があることを示してくださるでしょう。私たちがそれを求めて右往左往する必要はありません。本当の働きというものは、かなり多くの場合、私たちがその基盤に立つことであり、宣教の結果、今の悪の時代から私たちが救われ、天の御国に到るということです。

主イエス様が私たちの模範です。皆さんはその天の人である(イエス様の)自発的な宣教、落ち着いた宣教を見られるでしょう。私はその宣教を切望するものです。そのことは、私たちが心を配らなくなるということを意味せず、かなり不必要な緊張から解き放たれるということです。それが(私の言う)宣教がどのようであるべきかということであります。願わくは主が私たちをして天に満ち満ちている天のいのちを持つ天的な人とならせてくださいますように。

(今日の箇所は All Things in Christ - Chapter 7 の一部の抜粋引用訳で7章の題名はThe Heavenly Man as the Instrument of the Eternal Purposeであり「永遠の目的を反映する器としての天の人」とでも訳せますでしょうか、その内容の結論部分です。結論に至るまで天の御国がどんなに栄光に富んだところか、みことばを通してスパークス氏は諄々と語ります。その中で、私にとって印象的であったことは、永遠のいのちとは、単に永らえることでなく、それは人に起源のない、天的な「いのち」であることが聖書に登場するナタナエル、ニコデモ、マリヤなどの例を通して明らかにされてゆくところでした。そして最後にいきなり、Ministryということばが登場するのです。それを上記のように私は「宣教」と訳しましたが果たしてどうなのでしょうか。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003067.htmlですので関心のある方はご検討ください。

今日は火曜の学びに出かけました。ベックさんは56年前に用意されたメッセージを語られましたが、みことばエペソ1:5~6、23、ローマ8:14、23、29は古びません。聖書の真髄は変わることありません。こどもであることから脱し、成長し神の息子になる者が天の御国を受け継ぐものであると語られました。スパークス氏と全く同じ信仰です。神の家を構成する一人一人は霊の生ける石です。だから、この石は、もちろんレンガではなく、知識を得ようとする主の学生でもなく、主が訓練を施されるこどもであることが強調されました。聞き終わって階下に降りましたら、写真のパスカルのことばの額が目につきました。パスカルもまた信仰が絵空事、空を打つ拳闘でもなく、生き生きとした信仰に生きる人でありました。そのようになるように、パスカルは主の訓練として病を得たのです。)

2011年3月5日土曜日

啓示によって主イエス様に出会う

椿さん ピンクの笑みよ 惚れ惚れし 
私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。(新約聖書 ガラテヤ1:12)

私たちの中でこの世の力を味わった人々は、この世のことと宗教上のこととの結びつきがどうなのかを、人の性質に関して認識しています。そこには領域が違うだけで、性質が異なるのではないということがあります。この世の音楽や劇がある意味で生み出すもの、心をかきたてたり、鼓舞したり、懇願すること、すなわち情念、涙、軽蔑、憎悪、怒り、憂鬱、喜びなどは状況が異なるだけで全部同じであるということです。事実はこの世の生み出すものはなくなり、私たちは本当は遠くないのです。

少しのよりすぐれた音楽、説教者の交代、馴染みの場所でないこと、二三のよりすぐれた感動は多分私たちの魂を痛く刺激するでしょうが、結局私たちのいるところは(本来)どこなのでしょうか。サタンは仮面の裏でどんなにか笑っているに違いありません。ああ、真実を求めて、永遠の真実を求めておるわいと。

その人たちは、美や崇高なものの鋭い感覚を持つ高度な教養ある人が、この世に関して、(それを持ち合わせない)下品な人よりも非常にすぐれていても、そのようなものは、必ずしも神を個人的に生き生きと知る、すなわち神を人の子として知り、本当に新生しているという基準にはなりえないということを知ることでしょう。

私たちが「信仰復興」を求めて祈る時、私たちがあくまであとである(神様が第一)ということ、また私たちが推進し、動かすのにどんな手段を用いているかに関して注意したいものです。・・・使徒パウロは彼の生活と奉仕のすべての秘密が「啓示によって」福音を受けたという事実であったことを明確にしています。

私たちは聖書を一冊の本としてもっとも完全に知ることができるかもしれません。しかし霊的には死んでいて無価値であることがあり得るのです。聖書が神を知ることや永遠のいのちの基盤にある信仰について語り、その結果として自由を獲得し、恵みを得るなどする時、聖書はやはり人が探求することによって神を見いだすことは不可能であり、霊の知識であり、生まれながらの心による知識ではないということを大変明確にしております。

かくして豊かな聖書知識、キリスト教教理の正確で巧みな把握力、人の生まれながらの英知や能力によりクリスチャンの働きをなすこと、聖書の内容やテーマを巧みに興味を持つように提示することは少しも生来のいのちを越えるものでなく、依然として霊的に死んでいる状態にとどまっているのかもしれないのです。

人は議論を挑まれたり、理性で納得されたり、惹きつけられ、関心を持たせられ、「感情が高ぶらされ」たり、熱狂的になったりさせられて天の御国に入れられのではありません。ただ(新しく)生まれることだけが可能であり、それは霊的なよみがえりによるのです。

(今日の箇所はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003064.htmlですが、どうしても All Things in Christ - Chapter 10 の中には何度探しても見い出せませんでした。恐らくこのホームページ提供者の何らかの単純なミスだと思います。どなたかが気づいて直していただけるとありがたいです。なお本日の箇所は繰り返し読む必要のある箇所だと思います。それだけ一層この文章がどこに納められているか前後の文章を知りたいです。読者の中でその文章の原典を探してお知らせくださるとありがたいです。人間のすることですからこういうミスもあるのですね。一時はこれはこのような無駄な訳業はやめとけという合図かと思いました。ふりかえってすべての訳業が恥ずかしいばかりの誤訳の連続です。読者諸氏のご理解をお願いします。)

2011年2月26日土曜日

仲介者の手にすべてがある、それ以外にはない

山茱萸(さんしゅゆ)黄色き花を 青茶に 点描せし 春の便りかな
神と人との間の仲介者は唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。(新約聖書 1テモテ2:5)

神によるすべての事柄の答え、説明、認識の手段は一人の人にあります。その人とは「人としてのキリスト・イエス」です。この世界が悪い方向に走ってしまう時、この住民のいる地上は一人の人に「よって」裁かれます。人類はその人とどんな関係を心の深層において持っていたかによって将来裁かれるのです。

裁きの問題は決して人がいかに善であったか悪であったか、また正しかったか間違っていたか、あるいはそれらが多いか少ないかという程度によって裁かれるのではありません。一つのことが問われるだけです。「あなたはキリストのうちにいますか」であります。もしあなたがキリストのうちにいらっしゃらないなら、もはや(先程述べたようなことがらが)多いか少ないかということには何の違いも生じません。

神の意志、宣言はすべての事柄が神の御子のうちにあるということです。あなたは御子のうちにいますか。なぜ御子を信じないのですか。裁きの根拠は極めて単純です。すべての者が一人の人にあって集められるからです。私たちのために神が人となったその人のうちに(裁きが)あるということです。それが裁きの根拠なのです。

結局、すべては極めて単純ではあるが包括的で祝福に満ちた真理に戻るのです。すなわち神を満足させ、神の目的を実現し、私たち(罪人)の要求を満たすのはキリストであるということです。すべてのことは一人の人、すなわち「人としてのキリスト・イエス」に帰するということに他なりません。

主が引き続いて私たちの目を開かせて、キリストの栄光と神のしもべでもある天的なこの人を見させて下さいますように!

(今日の箇所は All Things in Christ - Chapter 15の抜粋引用訳です。 と言いましても、A4判で138頁にまたがるこのメッセージの最後の部分http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003056.htmlです。15章だけの表題は「神がお立てになった人(キリスト・イエス)」というものです。引用聖句はローマ8:29、ガラテヤ4:19、エペソ2:15~16、1コリント1:24~30、12:13、ガラテヤ3:27~28、使徒17:31ですので是非聖書自身をご覧下さい。なお1月20日、2月16日の本ブログの文章は9章のものです。庭に山茱萸の花が一斉に咲き誇っています。つい数日前には堅い蕾でありましたのに。日本はここ二三日一気に気温が上昇しています。)

2011年2月16日水曜日

豊かな「いのち」とは

枝垂梅 すでに満開 時近し 如月の雪 溶け去る日向
わたしが来たのは、羊がいのちを得、・・・(新約聖書 ヨハネ10:10)

一方で永遠のいのちが私たちの生来のいのちを切り離すために神様とのつながりを持つ原理として働くなら、他方でその働きは全く素晴らしいものであります。それが「主のなさることは私たちの目には素晴らしい」ということです。

主は私たちの肉体のいのちとしてお入りになり、私たちが最善の時にできたかもしれないが決してできなかったこと以上のことをなさります。確かにそれは現在の可能性よりもはるかにまさったみわざです。なぜなら主はこれまで私たちは人間として最善であっても何者でもないということを知らしめて来られたからです。いのちはそのことをなすのです。(主の与える)いのちはひとつの原理(肉の原理)を追い出し、別の原理(いのちの原理)を与え、いのちが働くようにその余地をつくるのです。

私は信じているのですが、そのことが主が「 わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです(ヨハネ10:10)」とおっしゃった時に言おうとされた意味です。私たちはこれまでそのことは私たちが豊かになることを意味していると思ってきました。私たちは絶えず自分自身が素晴らしく意気が高揚し、エネルギーに満ちた思いを持つようにもっと豊かないのちをと求めています。

(しかし )主ははるかに実際的であります。そしてもっと豊かないのちとは以下のことを意味しているのです。いのちを持つなら、自らを少しずつ導く必要性があることに気づき、そのいのちだけが豊かさをもたらしてくれるので、いのちの道を歩むにしたがって、(主の)いのちをふんだんに必要とするだろうということです。

そして主の御意志はいのちを十分に与え、満たしの目的を達成されるということです。なぜなら(主の)目的はそのような豊富な目的であるからであります。(主の)いのちだけが目的にかなうものなのです。

(今日の箇所は All Things In Christ - Chapter 9の引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003045.htmlです。随所に括弧書きで示したものは原文にないもので、読みやすくするために使いました。 なおこの項目は1月20日の続きになっています。昨日火曜日の吉祥寺の学びでベック兄は再三「選ばれた者の解放と生活に対する奉仕」ということばを繰り返され、主を信ずる者がいかにそのために執り成しの祈りに専念しているかと迫られましたが、同時に「悪い思いは実現する、それから判決が下される」と悪魔の働きに言及され、たとえ悪魔が勝利を得ているように見えても、それは主の許しのもとにあることで、究極的には主の勝利が成ると語られ黙示12:11、ピリピ1:6などを引用されました。この注釈は昨日の項目につけたすことが適切かもしれませんが、忘れないうちにと思い、あえて今日の項目に付加させていただきました。)

2011年1月20日木曜日

「教会」は主にとって「宝」

「ななかまど」 スコットランド・エジンバラ 10.10.3
あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。(コロサイ3:3)

主イエス様は宇宙や全被造物の支配権を持っておられたが、今や十字架によって、全被造物の中から宝を取り出すために特別にその宝(である教会)に集中されている。今このような時に生かされていることはすばらしいことである。

「天の御国は、(ここは天は複数であらわすべきだが)畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」(マタイ13:44)

主は教会に対して密かな働きをなさる。だから、私たちが教会だと思うことを、人目につく場所に出て行き、公にすることは常に危険である。真の教会は人の目には隠された密かな交わりであり、働きもそのようにしてなされる。それが教会の安全である。あなたも私も勇んで出かけて行き、宣伝したり、陳列品を並べるような立派な目に見える働きをするなら、私たちが神の働きをさらすことになり、果てしない危険に道を開くことになる。私たちは神様が私たちをご自身とともに隠された密かなところに置いてくださっているところに留まるべきである。それが安全というものだ。

このいのちの(歩み)を通して私たちは次のことを学ばねばならない。すなわち私たち自身が神と関係があるという状態から変えられて、私たち自身のうちに神ご自身がおられるという状態に変わることだ。たくさんの人は私たち自身が神と関係があるというところにいる。依然として、私たちの心の中に神の事柄に従事するという思いがある。私たちはそれらの思いが神の考えであったり、神の精神性であると思っているかもしれないが、依然としてそれは私たち人間の思いであったり、人からするこれが神の事柄だと思うことが大部分なのである。

私たちはつねに神の心はそんな私たちの思いとは別であることに気づくであろう。私たちは、主イエス様についての新しい見方に道を譲らねばならない。

http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003018.htmlの私訳です。)