2011年9月13日火曜日

御霊の一致

「ブルースター」の種、造化の妙。拡大してご覧ください!
 平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。(新約聖書 エペソ4:3)

(          ひとつになってともに住むこと
 さて私たちは祝福の第二の点にやってきました。「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。」(詩篇133:1)
私たちは祝福をその例示、前兆のうちに、すなわちあらゆる心を結びつけ、すべてを一つにし、すべてのものの個性や、すべてのものの分離から引き出すシオンをこれまで見て参りました。さて、心が主イエス様に集められる時、私たちは分離や私たちを別れさすあらゆるものに抗する最大の力と動力を身につけるのです。 そして主イエス様が私たちの中心であり、卓越したお方であり、私たちの心が出て行くのは主イエス様に向かう時であるなら、私たちはひとつになるのです。あなたは個人的な関心と同時に主の関心を求める心配りを持つことはできません。ダビデはそのことを完全に明確にしています。「わが家の天幕」(訳注:詩篇132:3)それはひとつのことなのです。そしてもし私がそのことをよく知っているなら主のために家を建てないでしょう。もし家を建てるなら、主の安息のための場所を見出さないでしょう。もし私が私の願いに満足することを求め、私の目を眠らせ、私のまぶたをまどろませるなら、主の関心は二義的になるでしょう。しかし私が自分のことは、個人的であるすべての事柄と一緒に脇に置き、主に集中し、他のすべての人もまたそうする時、私たちはキリストにある完全で中心である結節点を見出すのです。それが一つになって住むということであります。
 さてエペソ4章は詩篇133篇の偉大な新約聖書の解き明かしであります。「ひとつのからだがあります・・・」イタリック体なしにこのひとくだりを読んでください。「平 和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。からだは一つ、御霊は一つ・・・召しのもたらした望みが一つ・・・主は一つ、信仰は一つ、バプテスマ は一つです。 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。」(3節〜6節)

適切に組み立てられた一つのからだとしてキリストにある一体性が描かれているということです。どのようにしてこの完全な一体性は到達されるのでしょうか。独立した個々人であるすべてがなくされることにより、また主が焦点の中心であることにより、そしてそのように一体性を維持する熱心さが与えられることによってであります。あらゆる個性的なものは閉め出され、つねにキリストとキリストの関心が視野に保たれるのであります。「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」(13節)そのように一つになってともに住むことは、キリストが私たち全員の関心事の唯一で中心的な存在であることの結果であります。このことは幻として、想像上の単なる理想ではなく、極めて実際的なことであります。

あなたがたと私は、分裂が働く要素があり、私たちを引き離すように私たちの間に忍び込んで来るものがあることを知ることでしょう。(悪魔である)敵はつねにそうすることを求めています。主の民の間に入り込み、障害を築こうと暴動を起こすことは数えきれません。時には彼らは抽象的な人格以上のものであります。それはあなたがたがつかまえ、説明し彼らがどんなものであるかを言うことが決してできないものであります。それはまるで何かの感覚のようなものです。時にはそれはもっと積極的であり、何かについて明白で限定した誤解が言われたり、なされたり、つかまえられたりします。そして、もちろんそのことはつねに(悪魔である)その敵によって誇張されるのです。

御霊の一致を保つためにこの種のことはどのように扱われるのでしょうか。正しくこの基盤にだけ立って適切に私たちが次のように言うことです。「このことは主の関心ではありません。これは主にとって価値あることでは決してあり得ません。このことは主の栄光と満足とはなり得ません。このことは主にとって痛み以外の何ものでもありません。」私が問題に感ずるかもしれないことは考慮すべきことではありません。私は間違った当事者でさえあるかもしれません。しかし私は間違っており、傷ついていると感じていたいのでしょうか。私は自らの威厳の上に立とうとしているのでしょうか。私は間違っていたので閉じこもり消え去りたいのでしょうか。それが生まれながらの性質が持つであろうやり方ですが、私は次の態度を取らねばならないのです。

「主は失うために立っておられる。主の御名は苦しめられるままである。主の関心はこの中に巻き添えにされている。私はこの生まれながらの性質を征服しなければならぬ。私はこれに勝たねばならぬ。私はこのことを振り払わねばならず、この兄弟姉妹に向かう自らの態度や、自らの行為、自らの感情に影響を与えることを許してはならない。」主のために私たちが感じることや私たちの権利さえも、そして主の証を傷つけようとするこのような敵の努力を征服するということも脇に置かれねばならないのです。

それが一致を保つ熱意を与えるのです。それが分裂にまさる勝利の力であり、一致の勝利であり、主はそこに祝福を命じておられるのです。それが永遠のいのちへの道です。それ以外の道は明らかに死の道です。そしてそれが敵を尻目にすることであります。その違いが明確にされるまでは、すべては死であり、すべては衰え、枯れ果てるのです。いのちは一致によります。 一致は私たちが個性的などんなものも捨て去るお方として場所をおあずけするキリストのうちにふさわしく見出されるだけなのであります。私たちは他のどんなもののためにもしてはならないのです。見える形で人のためにしてはならないのです。私たちはキリストのためにそうするのです。(その結果)敵は敗北させられるのです。

(今日の箇所は All Things in Christ - Chapter 8 の 抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003363.htmlです。Sparks氏の短い評伝をまもなく、もう一つの「泉あるところⅡ」に載せさせていただくつもりでおりますが、今日のくだりなどは読む人にとっては七面倒くさいと思われ不必要と思われるかもしれません。しかしそれだけ彼が実際の教会生活の中でいかにみことばに立って戦っていたかがわかるものでありまして、訳出には苦労しましたが、その彼の戦いのほんの一端に触れさせていただいた思いがしており、私にとってはいい学びになりました。訳は相変わらずおかしいところがあります。昨日は 電話で当方の訳の違いを指摘してくださった方が初めてあらわれました。ありがたいことです。)

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