2011年9月29日木曜日

召されていることの重要性

木曽川に架橋する赤い鉄橋。緑に映える。
生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。(新約聖書 1コリント2:14)

精神の働き、情動的な生活、そして意志はまさしく新約聖書が生まれながらの人間と称するものであります。生まれながらの人は「たましいある」人として、神の御霊から生まれるものは受け入れることができないのです。

ほとんどすべてのいわゆるリバイバルはこの基盤の上で起こってきました。リバイバルは感情をゆさぶる強力な運動でした。強力な説得力や論証が人の理解力や意志に影響を与えたものでした。その結果はどうだったでしょうか。生まれながらの人間がキリスト教にうまく誘導されてクリスチャンとされたのです。しかし、 私たちは、ここに神の考えを知ることはできません。そのことは新しく神の子とされるということと無関係であるからです。

(神のことばによるなら、人はからだ、たましい、そして霊を持ちます。キリストは言われます。「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」(ヨハネ3:6)

「新しく生まれ変わる」ということは上記のリバイバルの中で起こったかも知れません。しかし申し上げますが、精神的な生まれ変わりと、御霊にあっての生まれ変わりとの間には違いがあります。その一つは本当の生まれ変わりの特徴的な性格をすべて一時的にもたらすことができるかもしれません。しかしそのすべては必ずしも御霊と何の関係もないのです。数えられないほどのケースにおいて過去御霊と関係がなかったのです。それは人の働きだからです。

(こういうしばしば上手に意図された努力の悲惨な実が、荒廃しているのです。どれほど上手に悪魔が惑わせるものであるかを知ります。すなわち悪魔がすべての異教徒的なシステムを何とかこっそりと持ち込み、)

神の考えとは共通するところが何もないシステム、キリスト教にするかということであります。教会との関連において同じものを見ます。キリスト教は神の考えの人間の解釈の体系となってしまいました。霊的な死がキリスト教に覆いかぶさっているのです。そこには神の生きた証は存在しません。

神は私たちに神の考えに関して心に重荷を与えられてきました。批判するために語るのではありません。そうしなければならないから語るのです。

(悪魔の力は人々のたましいの豊かさを自由に操れるところを操作するのです。悪魔は人のたましいのうちに自らに役に立つ提携をとおして自らの目的を遂行するのです。それが神が人を彼自身から救い、神のもとへと救い出すために大変な骨折りをしなければならない理由です。
 私たちはこれまで預言者の宣教は人々を神の考えにもどすように先導することにあったと言ってきました。それが神の民の間の宣教でありました。それは神の家にある神の権利・力についてでした。
 もう一度エリヤに戻り、どのように事が始まったか注目しましょう。それは主がエリヤに言われたことから始まっています。「アハブに会いに行け。」(1列王記 18:1)三年半以前主は言われました。「身を隠せ。」(1列王記17:3)預言者はそのためその時までずっと身を隠してきたのです。しかし、今や神のことばは「アハブに会いに行け。」でした。エリヤはアハブに対峙します。アハブがその時言ったことを思い起こします。「これはおまえか。イスラエルを煩わすもの。」(1列王記18:17)

神の権利を保持して立つ人々は神の考えを拒絶する人々によってつねに敵とみなされます。(※)

(エリヤの視点とアハブの視点があります。「イスラエルを煩わすもの。」というアハブか。それとも「私はイスラエルを煩わしません。しかし、あなたは」(1列 王記18:18)と答えることのできるエリヤか、です。本当は煩いはどこから生じたのでしょうか。神が望まれる道を求めている人々の側から生じたことですか。神、およびその権利を否認する人々の側から生じなかったのですか。主とともに完全な道を進みたくない人々、心に神の考えを持たない人々、彼らが神の敵であります。
 私たちはどちらの側に立ちたいですか。それが真の問いであります。それが今問題にしていることです。私たちはエリヤがどのように自分自身の生涯を述懐したかを知ります。すなわち「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。」(1列王記19:14)エリヤは神が望まれることの明確な見取り図を心に持っています。彼はまた見通すことができ、神の考えと一致しないことを認識できるのです。しかし彼自身はこれらのことの局外に立っています。彼は外部的な状況に巻き込まれません。それが彼が神に自由に用いられ得る理由であります。彼の献身には神の証を完全に回復するために必要で十分な犠牲を払う意欲がふくまれているのです。その結果としてこのような証者が敵として反対されることになるのです。)

宗教的なシステムが支配するようになるところではどこでも、つねに証者は、神の人々に混乱をもたらす者は彼らだと責められることでしょう。このことが宣教を非常に難しくさせるのです。これが宣教を非常に骨の折れることとするのです。しかしこの全ての背後にバアルがいました。エリヤはイスラエルに対抗したのではないのです。イスラエルは盲目にされて いた国民でした。バアルがその背後に立っていたのです。暗やみの力はイスラエルが身をまかしてしまった偶像崇拝のうちに働いていました。イスラエルは大層欺かれていたので、偶像崇拝の中で正しいことをしていると思わされたのです。これが最高度の欺きの段階であり、人がなすその全ては、また誠実に意図されているが、実際は悪魔に仕えていることを見ないことであります。

預言者の不同意は何をさておいてもイスラ エルに対してではありません。彼の戦いはイスラエルが巻き込まれているすべての霊的な体系とのものであります。「宗教的」な人々は、もし悪魔である敵が彼らを煽動しなかったら、預言者の宣教に反抗することさえしなかったでしょう。(ところが彼らは現にそうなっているのです)彼らは悪魔の道具となっています。しかし預言者はこれと戦う用意があります。彼は誤解され、中傷され敵と見られているのです。彼はイスラエルを煩わす者としてマークされています。

しかし彼には幻があります。彼は自分自身に仕えていないのです。彼は自らが立っているところは個人的な野心を入れる余地が残っていないことを知っているのです。しかし彼は神を見てきました。彼は神とつながっているのです。そして彼が神と持っている特別な立場で、神のものと人間のものとの違いが彼には啓示されてきたのです。この幻をもって彼は神の奉仕が必要としている犠牲を払うように用意できるようになっていたのです。

(私たちが自らの(神による)召しを良く知るということはどれほど重要なことでしょうか。それが私たちの宣教を決定するのです。)

(今日の箇所は "The Rights of God" - Chapter 4  の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003392.htmlです。スパークス氏はこの文章の後半でパウロのエペソ人への手紙が書かれている状況について説明し、いかにパウロが旧約時代のエリヤと似ているかを説得的に語っています。是非、みなさんがこの続きをお読みになることをお勧め致します。なお※の原文はPeople that stand without reserve for the rights of God will always be considered as enemies by those who reject the thoughts of God であるのですが、前後関係から見るとどうみても、ここは「without」でなく、「with」であり、原文のミスプリでないかと考え本文中のように訳しました。どなたかご教示をお願いします。)

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