2011年9月11日日曜日

キリストの愛

自治会の有志の方々が線路沿いに咲かせている朝顔の花です!
キリストの愛が私たちを取り囲んでいます。(新約聖書 2コリント5:14)

「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれています。」(ローマ5:5)聖霊による愛が主に対する生き生きとした仕え方となりました。さて、その働きは単純ではありますが、二方向に働くのです。あらゆる活動、働き、そして主に対する「奉仕」と呼ばれるものは、背後にこの愛がなければ、真に実のある奉仕の力には不足するのです。しかし、もし愛がそこにありさえすれば、私たちは主のしもべとならずにはいられないのです。主に対する個人としての熱情的な愛以外に私たちが主に本当にお仕えするものは何物も存在しません。何ものもその愛の代わはなし得ないのです。しかし、いったんその愛が与えられると、いかなる種類の聖職者が定める儀式を決めようともそのようなものは一切必要としなくなるのです。みなさんが心から主ご自身にふさわしい愛を抱かれるなら、みなさんはそれでまことに十分な主のしもべとなるのです。そのふさわしい愛が存在するなら、自ずとそれはなるのです。主にとっての私たちの価値のすべては主ご自身に対して私たちが心から愛するその愛の量りに応じるものであります。それがすべてであります。それについて理解しがたいことは何もありませんが、そのことは試金石にはなります。

私たちはこの後に出て来るエペソの教会のようにたくさんのことをなすことができるかもしれません。事実、エペソの教会はたくさんのことをなしたのです。ところが主は「あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。」(黙示2:4)とおっしゃったのです。そして結果的にはこうおっしゃったことになるのです。燭台をそのまま置いておくわけにはいきません。燭台はもはや空っぽで、内側に主がおられず、内に光を持たない、形だけの器に過ぎません。だから、もしこの初めの愛が回復しないのなら、それは単なる多くのことをなす道具に過ぎません。けれども私たちの存在を明らかにするのはその初めの愛であり、それしかないのです。その愛以外に私たちを支えるものは何もありません。その愛が長年月をとおして絶え抜く力であり、主に対する心からするその愛なしに持続されねばならないクリスチャン生活を送るということは恐ろしいことです。クリスチャン生活を長年のあらゆる緊張下で本当に可能とさせるのはその愛以外にないのです、と。

私は確信を持つのですが、使徒の場合に、あらゆる苦難と遭遇せねばならないあらゆることにあって、彼自身が耐えたのは主ご自身に対するこの彼自身の心からする燃えるようなその愛があったからだと思うのです。患難をくぐりぬけるにあたって、主に対する強い愛以外の何ものも私たちを耐えさせるものはないことでしょう。
(今日の箇所は The Representation of the Invisible God - Chapter 5 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003361.htmlです。久しぶりの投稿です。今日の箇所は一部ですが、全文をお読みくださると恵みは大きいです。特にマグダラのマリヤがいかにイエス様を愛したか、またパウロもどうだったかが描かれています。必読文献です。)

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