京都・白川の川縁 |
神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(新約聖書 マタイ6:33)
(読む箇所 ヘブル4:1~13; 11:5~6
私はこの世においてもっともむつかしいことについてしばらくお話ししたいです。それは信仰です。主の民に関する限り、その生活の全般があらゆる点において、つまりその最初の段階である救い、そしてそれに従属する歩み、霊的成長、霊の養育、勝利、
働き、奉仕、それに主との交わりと究極的な栄光はすべてひとつのことによって解決されるのです。その一つのこととは信仰です。信仰が主との交わりのうちに
あるすべてのことにとっての鍵です。鍵はあくまで信仰の問題です。信心と言うことでなく、神様を信ずるということです。
それは直面されなければならないことであり、いかなる観点においても可能な限り解決されねばなりません。しかし信仰は今回限りで解決されることではありませ
ん。この点について何度も何度も解決がなされねばならないのです。私たちは本当に絶えずこの問題に直面させられるのです。新しい事態や試みや混乱、それに矛盾に見えるようなことを前にして、私は神様を信じているのか信じていないのかとか、神様に信仰をもって安んじているのかいないのかとか、主を信頼しているのか信頼していないのかという問題です。それはずっとその通りですし、つねにそうなることでしょう。そしてこのような試みは非常に鋭く厳しいものです。
ある兄弟が今週私に書いて寄越しました。この人はここではもちろんのこと他の地でも主に大層用いられており、主を知り、まさしく主とともに歩んでいる人ですが手紙の中でこんなふうに書いたのです。「時々主はもう千マイルも離れているように見え、私のことなど関心を持っておられないように見えるのです。時には主は私を捨てられたようにも見えるのです」あなたはこれは極端だと思うかも知れませんが、そう思わない人もいるでしょう。あなたもご存知の通り、そのような経験は神様の子どもの生活にとって本当なのです。私はこういうことは直面させられねばならないことだと言ってきました。それが私たちが召されている生活なのです。主はそのことを覆われたことも、ベールをかけられたことも隠されたこともありません。私たちは信仰生活に召されています。そして私たちはそのことに直面した方が良いのです。その時私たちはもし乗り切りたいのなら可能な限り解決するに違いないのです。というのは繰り返しになりますが、神の子どもの生涯の最初から終わりに至るまで信仰に関係しないことはどの歩みにおいてもどの段階においてもまたどんな状況においてもないということです。
いいでしょうか。それが事実なのです。私たちはそのことについて全く正直でありましょう。またお互いに率直でありましょう。それが状況です。もし私たちがこのことにまっすぐ直面し、棚上げしたり、それをはぐらかそうとしないで、それを受け入れられたら、かなりの程度までそれが手助けになることでしょう。
信仰への鍵
しかし、私たちは信仰の内側に入って行きたいと思います。ご存知のようにヘブル人への手紙は初めから終わりまでが信仰に関する手紙であり、他のものの間に信仰にとって一つの非常に助けになるヒント、鍵があるのです。それはこの4章にあります。その箇所は信仰のことではないと思われるかも知れません。というのも信仰を面と向かって問題にしていないように見えるからです。しかし詳細に調べられれば、信仰がそこで触れられていることだと気づかれるでしょう。それはこの不思議な少々技巧的な言葉によってです。「というのは、神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができるからです」お分かりのようにそのことばは「というのは」という言葉で始まっていま
す。(訳者註:日本語の聖書には「というのは」はありません)
その「というのは」は荒野でイスラエルが安息にはいるのに失敗したこととつながっているのです。イスラエルは語られた福音を持っていましたが、語られたことばは益とならず、信仰に合わせられず、結びつけられもしなかったと言われています。それから「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」
(訳注:ヘブル4:3)ということばが続きます。彼らは不信仰のゆえにはいることができなかったのです。それから安息と彼らがはいれなかった失敗がもっと続き、そしてそれから「というのは神のことばがたましいと霊を分離する」と続くのです。これが信仰にとっての鍵、あるいは一つの鍵のことばであります。それは何でしょうか。それは「たましい」の征服であります。そして、それが荒野の失敗とそれに続いて安息にはいれなかったすべてを説明されるために言われているのです。
たましいとはどんなものかご存知でしょう。私にとっては、たましいと霊は実に一緒に暮らしたくないものです。たましいは自意識のいのちであります。たましいによって私たちは自分や他の人やこの世の事柄全てを意識します。霊によって私たちは御霊である神様とその全領域を意識します。自意識のいのちと神意識のいのちこれら二つのものが明確にされず相違が認識されず、重なることがゆるされ混乱状態をもたらしたために彼らははいれなかったのです。彼らは不信仰のゆえに失敗したのです。それは何を意味しているのでしょうか。自意識のいのちが優位になり、神意識のいのちが優位にならず支配され従属させられたのです。
別の言葉で言えば彼らにとってすべてのことは自我が状況や見通しに影響されたのです。彼らは何度も何度も熱狂に満たされ、主のことにおいて本当の関心のように見えたことに満たされました。そうなのです、彼らは前進し、明らかに主に対して本当の献身の思いで一杯でした。ところがそれは状況が彼らを喜ばせた時であり、見通しが彼らにとって大きな可能性や彼らの大満足をもたらすようにあらわれた時です。ああ、これはすばらしい、良いことです。さあ、このすばらしい土地、私たちが進んでいる土地についてもっと話しましょう。私たちの誉れある驚きや富について語り続けましょう。このことに私たちは関心があります。そのためにはいっているのです、と。
しかし、それはすべてたましいでした。
自意識、利己心、自己満足でした。そしてある状況が、現在もその見通しにおいても起こり、それによると自己を否定し犠牲にし、利己心を捨て、彼らにとって非常に犠牲のいる非常に困難な状況に直面しなければならなくなった時、彼らは全く関心をなくし、熱意は失せ、不信仰が持ち上がってきたのです。不信仰がそこにあり勢力を得たのです。彼らは今やこのことに全く関心がなくなり、それは今や彼らのためでなくなったのです。それは何のためだったのでしょうか。それは何よりも主だけのためであったのです。そして彼らの関心は完全に消え失せました。主が主のものを得たならその時に、彼らは初めて相続財産を受け継ぐことになったことでしょう。主はまず「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」と言われます。)
最初に言われていることはしばしば具体的な個々のすべてのものを手放すことを意味したのです。
(そのことが信仰の核心にすぐに達することでないでしょうか。)
私たちにとっての失望とは何ですか。私たちが考えている失望は主に対する失望であるとつねに言うことができますか。そして私たちは主が私たちの利害と全く関係のないものを願っておられるものを主に求めようとしたからであるということができますか。
(and over His things is because we did so much want the Lord to have
what He wanted irrespective of our interests at
all;)私たちはすべてのものを手放す用意がありましたでしょうか。私たちはとにかくこのことに悩まされなかったでしょうか。主にあって主が求めておられることを達成するにあたって私たちは自分自身が何らかの方法で試されていることを体験するのです。それらは大変混ざり合っているので、それが、これらの二つ(訳注:たましいと霊であろう)の間に入り、識別するきわめて鋭い道具とならねばなりません。主が関心となる道においては私たち自身が完全に遮断される時、信仰がゆるぎ、弱くなり、しばしばなくなるということは本当なのではないでしょうか。
それでは信仰にとっての鍵とは何ですか。信仰にとっての鍵はこのたましいと霊を分離することであり、また別の言葉で言えば、利己心を完全に自制することです。それは殲滅という仏教徒の言う意味ではなく、神様の関心が積極的になり支配するようになるという意味においてであります。それは信仰の戦いが激しくなるところです。信仰はつねにその領域で激しくなるのです。もし私たちが完全にそうだったら(そして私たちのうち誰一人として本当はそうではないのですが)、もし私たちが完全に主の関心にだけ夢中になり、その結果私たちの生活の他のどんな関心も私たちを支配する優越権も力も持たないのであったら、私たちは四六時中勝利のうちにいることになるでしょう。
主が求めておられることに対するこの完全に公平無私な関心が信仰の鍵です。もし荒野にあってイスラエルがこの態度を取ったのであったらと思います。たしかにこれは非常に困難な体験ですが、主が事の背後におられ、主が望まれ、明らかにそれがそこに達する最善の道であることを知っておられるのです。確かに私は主とともにおり、すべてのものを失い、すべてのものの損失に悩むのかも知れませんが、主が望んでおられることが重要なのであります。主が私たちがその地にいることを望んでおられ、もし主の喜びのためにそこにいることが万事を意味づけられておりそのことが重要であるなら、もしそれが彼らの態度であったら彼らは荒野にあって40年間ぐるぐると旅をしたと思いますか。土地の境界線で彼らが向きを変え荒野で滅びることになったと思いますか。土地に入って行った次の世代が信仰というこの一事だけで入ったという成就を見ることができるのです。すべての物語は信仰に基づいているのです。
(今日の箇所は The Most Difficult Thing in the World の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003389.htmlです。今日の箇所は英文を載せたところの前後の文章を訳するのが難しく、大幅に最初からの訳文を載せました。この文章は全部でおよそ6頁のものですが、ほぼ半分を訳出したことになります。英文の部分をふくめて識者の助言を得たいところです。なおその他随分誤訳があると思います。多くの方のご叱正ご指導をお願いします。)
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