中央線、電車の窓越しにカンナの花が鮮やかに目に飛び込んできました。 |
都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。(新約聖書 黙示21:23)
あかりは精神的なことではありません。すなわちあかりは単に精神的な知識を貯えることではありません。そのようなものはあかりではありません。たくさんの教義や真理を身につけることは可能ですが、決して光り輝かないのです。それは暗やみに対して影響をあらわすことは決してないのです。本当のあかりは経験に基づくものです。つまり、経験のもたらす実であり、その経験とは苦しみをとおしてのものです。
どのようにして神様のこどもであるあなたがたは、主についてよく知っていることを知るようになったのでしょうか。つまりその種のほんとうに主を知る知識とは、私たちにとって大変大切なものであり、重要であり、他の人にとってあなたがたがその価値の基準となるものであります。それは苦しみを通すのです。主があなたがたを導かれたのは困難な道を通してであり、主があなたがたのうちに働かれた十字架の働きを通してであります。
どのようにして神様のこどもであるあなたがたは、主についてよく知っていることを知るようになったのでしょうか。つまりその種のほんとうに主を知る知識とは、私たちにとって大変大切なものであり、重要であり、他の人にとってあなたがたがその価値の基準となるものであります。それは苦しみを通すのです。主があなたがたを導かれたのは困難な道を通してであり、主があなたがたのうちに働かれた十字架の働きを通してであります。
「小羊があかりです」苦しみが知識を導き、光を与え、理解をもたらすのです。それがただ一つの道であります。終わりにいるこれらの人々は偉大で素晴らしい啓示という良い状態にいることになるでしょう。その啓示はすでにキリストの苦しみのうちにキリストと交わることによってもたらされているのです。それは大変真実なことであります。ある観点からは余りにも不愉快なことかも知れません。しかしそれは真実であります。それは私たちが次のことを悟るように手助けするはずであります。主は私たちを扱う仕方において、主が私たちが遭遇するようにされた苦しみのなかで私たちの教育を本当にしようとなさっているのです。私たちはその道に唯一近づくことのでき、そして私たちにとって、また私たちを通して他の人にとって大きな価値を持つ特別な種類の知識である主ご自身について知ることができるのです。私たちはその他のいかなる道によっても学べないのです。それが小羊であり、つねに小羊の原則であります。
私たちが主を知るようになるのは苦しみと犠牲と己を空しくする道によるのです。「というのは小羊があかりであるからです」そして、小羊はちょうど更なるいのちに至るより深い死であるのと同じように、しばしばそれは更なる光に至るより深い暗やみであるのです。主は私たちが自然には主を次第次第に理解できなくなる道へと私たちを導かれるようであります。主は完全に私たちを生まれながらの資質から追い出されるのです。それは、主の方法を理解しようとする能力を超えていることだからです。私たちは主がなしておられることや、なぜ主が今なそうとなさっておられるのか全くわからないのです。しかし私たちが内面的に主を知る本当の知識に至る道があります。それは誰かにことばで説明できることではないかもしれませんが、是非どうにかして知ることができるのです。それは大きなこと、巨大な知識の力です。それこそ十字架をとおしてのあかりであるのです。
(今日の箇所は Followers of the Lamb - Chapter 5 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003386.htmlです。)
0 件のコメント:
コメントを投稿