2011年9月24日土曜日

ステパノは見た

今週月曜日、台風近づく中で旅先の降り立った駅頭で見たダリヤです。
見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。(新約聖書 使徒7:56)

ステパノの果たした役割のうちで、一つの、恐らく卓越した要因は彼がその生を閉じるに当たって見、ほとんど最後の息を引き取るときに言ったことでしょう。 「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」(7:56)ここに私たちは真の新約聖書のキリスト教、キリストのからだとしての教会と数々の教会の中心になり、基盤になる真実性、すなわち神の右に立っておられるイエスを所持するのであります。支配と権威と司宰は上られた主に付与されており、が中心であります。それはエルサレムでも地の他のどんなところでもありません。

(それから、これは、イエス様ご自身がその称号をお使いになってから後に、主が人の子として語られる唯一の機会であります。これはユダヤ人の称号ではありません。万人の称号であります。ダニエル書で私たちは人の子が神様から受け入れられた者として「主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった」(ダニエル7:14)ことを知っています。それがステパノの見た幻であり、言わんとしたことの意味であります。)

ユダヤ教の統治者やステパノの告発者たちは事の重大性を知ることにおいて十分敏速であり抜け目がありませんでした。というのは彼らは「宮が支配権を持つ」ことが終わらされた、律法制度がおしまいにされたという趣旨以外やそれ以下のものを見なかったからであります。イエスのからだである教会は宮と宮と組になっ ていたすべてのものから離れ、もっと偉大で完全で永久的な真実なものに移行したという暗黙の呼びかけを身に覚えたからであります。

(このことはただちに関連させられる二つの他の事柄にとってどんなに驚くべきまた印象的な意義を与えることでしょうか。私たちはこれらを見るにつれ、「何と驚くべきことよ」と叫ばざるを得ないのです。
 第一はパウロがこの点についてまさしく関係しているということです。ステパノはこの偉大な天からする啓示のための神様の器だったのでしょうか。彼は天の働きの先鋒であったのでしょうか。彼は、教会の歴史における重要で危険である時に、その構成と使命の本当の永遠に続く性質を主張する天の声であったのでしょう か。ステパノの告発者たちは天的な基盤の上に立つ教会の大変な重要性を知っている悪魔の権力の邪悪な知性によって動かされ、彼を処刑したのでしょうか。
 しかしまさしくその時、天が答え、地獄の悪意に満ちた破壊的な突進の時に、生涯ステパノの短い宣教のうちに内在しているこの真実なものがみなぎる啓示を伝えるその人(訳注:パウロ)の霊の眼ををただちに見えるようにするのです。何たるお答えでしょうか。人の子が王座に着いておられるとは何たる実例でしょうか。同じ破壊力はパウロを生涯追跡することでしょう。しかしその神の絶対的支配権は完全に与えられる啓示としてあらわれ、その破壊力は停止され、その働きが遂行されるのを見ることでしょう。
 第二の印象的な事柄はこの基本的な発展を短縮し終わらせようと する悪魔の働きそのものがそれを実現するまさしく手段とされたということであります。世界的教会、世界大の代理権がその時からそしてその出来事から立ち上がりました。ペテロとヤコブはエルサレムに残っていたかも知れません。 数人のがんこな律法学者は少なくとも後者を取り囲んだかも知れません。しかし神様はことをどんどん進められます。彼らは落ち込んだり限界内に置き去りにされねばならないでしょう。
 さて、このすべてのことは恐ろしく徹底的な含蓄をもって今日のキリスト教に対して言わねばならないことであります。ステパノの立場とその時代に関する彼の判断の双方がヘブル人への手紙がきわめて似通っているゆえに、何人かの人は手紙がステパノの作品であるとしてきました。ここではそのことを作者のことにしろ文献批評にしろ追求する価値はありませんが、双方における立場が同一であることは見まがうことはできません。事実ヘブル人への手紙はまさしくステパノによる(あるいはこのことに対するパウロによる)神の体制の危機および変化を完全に表明しているものだと見なしうることができるかもしれないからです。)

悲劇は彼らの手にするヘブル人への手紙をもって、教会の責任ある指導者たちが依然として語法を変えて旧約聖書の延長や持ち越し以外のものでない体系や形式に執着することができるということです。その変化や落差の大きさは 確かに理解されてこなかったのです。全聖書のうちでもっともおそろしいことがらのいくつかはその手紙の中で危機と二つの道と領域との関連で書かれていま す。争点は生きるか死ぬかのそれに劣らないものです。このすべてのことがからだとしての教会と地上の教会との真の性質に関連して言うべきことをたくさん 持っているのです。見る目を持つ者は見なさい!(He that hath eyes to see, let him see!)

(今日の箇所は According to Christ - 4 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003387.htmlです。今日の箇所はたくさん翻訳のミスがあると思います。ご指摘くだされば幸いです。)

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