2011年9月15日木曜日

愛の点火

夏の思い出
愛には偽りがあってはなりません。・・・兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。(新約聖書 ローマ12:9,10)

「イエスは、極みまで弟子たちを愛された」そして私はその言明のうちに、かつてこの世界に生じたもっとも驚くべき出来事があると思うのです。イエス様は弟子たちに大層てこずっておられました。弟子たちはしばしばイエス様を誤解したのです。またしばしば彼らはイエス様に失望したのです。彼らは本当にきわめて貧しい人々でした。

イエス様は彼らがどんな貧しい者であるかを知っておられましたが、その極みまで愛されたのです。それがこの愛(訳注:イエス様の愛)に関する第一番目のことです。この愛は私たちの失敗で感情を損ねることがないのです。イエス様は私たちが過ちを犯すからと言って引っ込まれることはないのです。私たちはしばしばイエス様に失望するかも知れません。またしばしばイエス様を裏切り、そのお心を悲しませるかも知れません。けれどもイエス様は私たちを愛し続けてくださるのです。イエス様は私たちを極みまで愛してくださいます。 まさしく終わりまでです。私たちの失敗に感情を損ねることはなさらないのです。それは私たちの愛とは全く異なった愛であります。これがキリストにある神様の愛です。

ご存知の通り、愛について話したり、愛するふりをしたり、愛という言葉を用いたり、愛についての賛美歌を歌うことは大変簡単なことです。しかし全部感傷的なものとなり得るのです。恐らく私たちすべてが私たちにあなたを愛していますと話してくれたが、きわめてしばしばその人たちが私たちをもっとも傷つけたことがある人だったということを知っているでしょう。ところがイエス様の愛は感傷的ではありませんでした。実際的でした。イエス様は弟子たちに協力して「兄弟たち、私はあなたがたを大変愛しています」とは言わなかったのです。彼は弟子たちにご自身が弟子たちになさったことによって愛されていることをお示しになりました。その愛は感傷的なものでなく、実際的でありました。そしてこれこそ主が極みまで弟子たちを愛された愛そのものなのであります。

ご自身のものに対するキリストの愛を特徴づけるこういうことが、私たちの他の人に対する愛のうちに形造られねばなりません。それがなぜ聖霊なる神様が来られたかの理由です。キリストが私たちを極みまで愛してくださったように、私たちもお互いに愛さねばなりません。

(おゆるしください。私は持ち時間を4分オーバーしてしまいました。でも、もし私たちがキリストの愛のこの偉大な教訓を学びさえするなら、一晩中ここにとどまっていてもその価値はあるのではないでしょうか。)

(今日の箇所は "That They May All Be One, Even As We Are One" - Meeting 3 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003366.htmlです。今日のところは1964年になされたメッセージの聞き書きです。全文は読みやすい英文です。全部で7点の特徴をヨハネ13章から述べています。数少ないスパークス氏の息吹を感ぜられるメッセージです。またその中にウオッチマン・ニーの言った鋭い言葉が紹介されているのも興味あるところです。)

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