だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(2コリント5:17)
みことばはキリストはこの古い人から全く引き出されて天にある神の右の座に着かれたと極めて明確に教えています。一方で天にある主の御存在と主と霊的に結び合わされた私たちの存在はすべての霊的な目的と力のために私たちもまたキリストにあって天にいることを示しています。私たちの主イエス様についての偉大な真理、また私たちにもたらされる新しく造られた者の偉大な領域を私たちが本当に霊的に速やかに生き生きとした理解力をいただくように主に求めましょう。そして、日々それを適用し、訓練し、実践しましょう。
表面的には全く霊的豊かさが全然なく、養われるようでないところにあなたは行かねばならないかも知れません。あなたにはキリストがおられ、あなたの前に全地がまかされていることを覚えなさい。休息、霊的な休息以外には何もない、すべてがいらいらさせられ、心配があり、動揺させられ、傷つけられる場面に入れられねばならないかも知れません。あなたは主の御支配の地におり、キリストのうちにいることを忘れないで下さい。あなたはキリストをあなたの安息なるお方としていただいているからです。あなたは争いや闘争やあなたを倒す敵の恐ろしい働きに入れられるかも知れません。あなたはキリストのうちにあり、キリストは勝利者であり、完璧で究極の勝利であることを覚えていて下さい。
敵がそのことについてたとえどんなことを言おうとも、そのことは真理としてとどまります。キリストは主に栄光を帰するいのちのために私たちが必要としているすべてです。私たちが新しく造られた者のうちに持っているものはキリストがおられることです。
(今日の箇所はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003000.htmlです。 なお題名は引用者が今日の内容にふさわしいのでないかと考えてつけているものです。)
ラベル The essential newness of the new creation の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル The essential newness of the new creation の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
2017年1月2日月曜日
2011年7月11日月曜日
キリスト、この方に安息があります
私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。(新約聖書 ヘブル4:11)
ヘブル人の書き手が言うには、入ることに失敗した人々は安息にはいることに失敗したということです。福音が前もって伝えられていた人々がはいることに失敗したのです。そのことは注目に価します!福音は人々に語られていたのです。こういう人々は福音が前もって伝えられていた人ばかりです。
福音とは何ですか。そのつながりの中で質問に答えるのは、私たちに安息を与えるキリストです。それが福音です。私たちの安息であるキリストの福音はイスラエル人には型として宣べ伝えられていました。その福音を前もって語られていた人々が安息にはいることに失敗したのです。それで使徒は言います。「私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。」
彼らは落後しました。神は別の日を設けて言われます。「きょう、もし御声を聞くならば、心をかたくなにしてはならない・・・」福音は神の安息にはいるために信ずる者に宣べ伝えられているのです。主イエス様はこのことを「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」と言われて信仰の初期段階に置かれたのです。天におられるキリストが私たちの霊の安息であり、心の安らぎなのです。
安らぎの本質って何でしょうか。それは心の満足と確信です。もしあなたがたとえどんなにたくさんの仕事をしなければならないとしても満足しているなら、あなたは心の安らぎのうちにあるのです。さらにもしあなたが仕事がうまくいくと全く確信しているなら、あなたは確信のうちにあり、心の安らぎを経験しているのです。
私たちにとって、すべてのことは、先駆者としてはいり、私たちの安息となってくださっているキリストに基盤があるのです。私たちは骨折り、自分自身を注ぎ出し、また燃焼し、燃え尽きることでしょう。しかしそのすべてにあって真の心の平安があり得るのです。私たちは攻撃され、あらゆる方面から圧迫され、投げ捨てられ、試みられることでしょう。しかしキリストが依然として私たちの安息として残り得るのです。
というのは、先ず第一にキリストが破壊する力(訳注:悪魔の死の力)を打破されたので、これらのことどもは私たちの破壊とはならないことを知っているからです。次に私たちの骨折りは空しく終わらないのです。なぜならキリストは勝利のうちに死を飲み込まれたからです。キリストが私たちの安息なのであります。
(今日の箇所は The Essential Newness of the New Creation - Chapter 4 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003275.htmlです。)
2011年5月16日月曜日
Christ is implanted!
このかしら(=キリスト)がもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられるのです。(新約聖書 コロサイ2:19)
信者とはどのような人ですか。神様の見地からすれば、信者はその内側にキリストが埋め込まれている人であります。そして神様は決してキリストを限定的にごらんになっておられません。神様はつねにキリストを完全な仕方でごらんになります。キリストが私たちの(霊の)いのちが誕生するおりに埋め込まれている時、それはあたかも神様がキリストを断片的な方法で埋め込まれたかのようなものではありません。神様のお考えは目的が初めと密接に関わりがあるべきであり、キリストがすべてであり、すべてのうちにキリストがあるべきだというものであったのです。
それが、なぜ改宗はそれ自身が決して目的ではないか、という理由です。改宗は神様の完全な目的に向かう最初の段階に過ぎません。それ(キリストの満たしにあるということ)が神様の見地からする信者の性質を特徴づけているものです。あなたがたはそうすることはできません。どんな決意のカードを切ったとしても実行不可能です。あなたがたは決して男性や女性にある決心をさせ、キリスト教の教義の定められた条項に知的に同意するように勧めることによって彼らをクリスチャンにすることはできません。たとえその教義が主イエスが人の子であることやその働きを述べることに関して完全に正確であったとしても、です。
その個人を構成するもの、まさしく存在の中心にふさわしく、キリストとの生きた結びつき、キリストの埋め込みがなければなりません。それ以外のいかなるものもニセの改宗であります。それが存在のまさしく中心にキリストがおられるということであり、それはまさしく外縁にまでキリストが広がっていく見方をともなうものであります。それが信者の性質であります。
あなたがたはおわかりでしょう。組織化された手段や方法によって、本当に神様のすべてであることをどれだけ伝えようとしても、哀れな絶望に終わるということです。ただ(信者の)成長が必要であります、(信者で)あることが必要であります。ああ、しかしそうであるなら、力があり、壊されず、妨害されないのです。何ものもキリストの道に立ちふさがることはできません。(しかし)それは地獄を目覚めさせ、悪魔の活力を奮起させるのです。悪魔は他のすべての教義、働き、告白を意に介しません。それは往々にして悪魔の目的に大きな策略、偽りとして仕える可能性があるのです。しかし、キリストを受け入れなさい、キリストに支配していただきなさい、キリストを認識しなさい。そうすれば、その時、あなたがたはキリストに敵対する、この全世界のあらゆる力(悪魔の力)に直面するのです。
(今日の箇所は The Essential Newness of the New Creation - Chapter 2 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003185.htmlです。)
2011年4月27日水曜日
悩みの炉の目的
| 「こんにちは 皆さん桜(は)豊かです(よ)」ムクドリ君の声 |
わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う。わたしは悩みの炉であなたを試みた。(旧約聖書 イザヤ48:10)
悩みの炉はキリストにあって生きる信仰者のためにあります。一体、悩みの炉において何が起こるのでしょうか。火が処理するものは何ですか。火が精錬するのはあなたですか、また私ですか。あなたは火によって精錬されますか。 私は悩みの炉で精錬されるのでしょうか。私は言いたい、そうじゃないのです。もう一度強調したい、そうではないのです。
もし私たちがそうだと言うなら、よろしい、一緒に悩みの炉、るつぼにおいて金属を精錬する火を見ましょう。 あなたはその金属をもってどうなさるのですか。あなたはおっしゃることでしょう。火でもって強力に熱し、全不純物や腐敗物が表面に出て来る。これが除去されて、その過程が最後まで実行された時に純金が残されるのだ、と。それからその純金があなたであり私であるとおっしゃるのなら、あなたは全部が腐敗しているという教えを捨て、結局は私たちのうちには良いものがあるというところにまで戻らねばならないでしょう。
あなたは私たちのうちには良いものも悪いものもあるが、悩みの炉が私たちの悪いものを除去し良いものを残すのだと言うのでしょう。それは本当に聖書が言っていることですか。いいえ、そうではありません。悩みの炉は私たちのうちにある良いものを残そうと悪いものを除き去り、それを達成するためにあるのではありません。
では、悩みの炉の目的とは何でしょうか。私たちのうちにあるキリストを精錬するためですか。そのことについて議論する必要はありません。キリストは精錬される必要のないお方です。それでは何のためですか。それは私たちのうちにある堕落した性質とキリストにあるものを分離し、その堕落した生まれながらの性質を除去し、キリストにあるもので満たすためにあるのです。悩みの炉は十字架の適用であり、あなたも私も取り除かれ、全部キリストのものとなるために起こされているのです。神がすべてであり、私たちのうちにある良いものと悪いものとを切り離すことではなく、キリストにあるものと私たちの自我とを切り分けるというのがキリストの基準なのです。
それは主がなさることなのです。主は益々盛んになり、キリストがすべてなのです。そして主はそのことをなさるために、自我、古きものを除去されねばならないのです。この領域における全ての基準はキリストです。神の国は自我を浄めたり、自我を改造したり、さもなければ自我のつぎはぎをしたりすることではありません。自我からは何もなく、キリストからすべてが成り立つのです。
(今日の箇所は The Essential Newness of the New Creation - Chapter 2 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003165.htmlです。すべて基本的だとは言いますが、私には目から鱗の言辞が沢山出てきました。全文を読んでみる価値があると思いました。今日の箇所の引用聖句にはほかに2コリント5:14~18がありました。)
登録:
投稿 (Atom)