2011年4月27日水曜日

悩みの炉の目的

「こんにちは 皆さん桜(は)豊かです(よ)」ムクドリ君の声 
わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う。わたしは悩みの炉であなたを試みた。(旧約聖書 イザヤ48:10)

悩みの炉はキリストにあって生きる信仰者のためにあります。一体、悩みの炉において何が起こるのでしょうか。火が処理するものは何ですか。火が精錬するのはあなたですか、また私ですか。あなたは火によって精錬されますか。 私は悩みの炉で精錬されるのでしょうか。私は言いたい、そうじゃないのです。もう一度強調したい、そうではないのです。

もし私たちがそうだと言うなら、よろしい、一緒に悩みの炉、るつぼにおいて金属を精錬する火を見ましょう。 あなたはその金属をもってどうなさるのですか。あなたはおっしゃることでしょう。火でもって強力に熱し、全不純物や腐敗物が表面に出て来る。これが除去されて、その過程が最後まで実行された時に純金が残されるのだ、と。それからその純金があなたであり私であるとおっしゃるのなら、あなたは全部が腐敗しているという教えを捨て、結局は私たちのうちには良いものがあるというところにまで戻らねばならないでしょう。

あなたは私たちのうちには良いものも悪いものもあるが、悩みの炉が私たちの悪いものを除去し良いものを残すのだと言うのでしょう。それは本当に聖書が言っていることですか。いいえ、そうではありません。悩みの炉は私たちのうちにある良いものを残そうと悪いものを除き去り、それを達成するためにあるのではありません。

では、悩みの炉の目的とは何でしょうか。私たちのうちにあるキリストを精錬するためですか。そのことについて議論する必要はありません。キリストは精錬される必要のないお方です。それでは何のためですか。それは私たちのうちにある堕落した性質とキリストにあるものを分離し、その堕落した生まれながらの性質を除去し、キリストにあるもので満たすためにあるのです。悩みの炉は十字架の適用であり、あなたも私も取り除かれ、全部キリストのものとなるために起こされているのです。神がすべてであり、私たちのうちにある良いものと悪いものとを切り離すことではなく、キリストにあるものと私たちの自我とを切り分けるというのがキリストの基準なのです。

それは主がなさることなのです。主は益々盛んになり、キリストがすべてなのです。そして主はそのことをなさるために、自我、古きものを除去されねばならないのです。この領域における全ての基準はキリストです。神の国は自我を浄めたり、自我を改造したり、さもなければ自我のつぎはぎをしたりすることではありません。自我からは何もなく、キリストからすべてが成り立つのです。

(今日の箇所は The Essential Newness of the New Creation - Chapter 2 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003165.htmlです。すべて基本的だとは言いますが、私には目から鱗の言辞が沢山出てきました。全文を読んでみる価値があると思いました。今日の箇所の引用聖句にはほかに2コリント5:14~18がありました。)

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