キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。(新約聖書 ガラテヤ5:1)
旧約聖書では「レムナント(残りの者)」、新約聖書では「勝利を得る者」と書いていることばには、奴隷状態から解放され、自由な空気を吸うようになるという別の意味があります。それは素晴らしい絵であり、勝利者にふさわしい自画像であります。私はその言葉を言い換えるためにそれ以上の言葉を知りません。私たちの幾人かは、クリスチャン生活やその歩みにおいてすら、奴隷状態からの脱出であることを知っています。何と、キリスト教組織や秩序、期待、必要の古き拘束があったことでしょう。すべて古き輪番制やしなければならないことから自由にされたことでしょう。
キリストとともによみがえらされるだけでなく、死んだ古い着物を脱ぎ捨てて、霊的に解放された自由な空気を吸うことになったのです。それはこのことばがレムナントと呼ぶものであり、キリスト教にとっての特別な何かを意味する言葉ではありません。皆さんが教会の始めに見いだしているものです。主は重荷を持ち、暴君に支配されている、宗教的な国民のただ中にあって叫ばれたのです。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28~30)
古きくびき、古き荷物とは何ですか。それらは人々を困らせ、疲弊させました。人々は死に瀕しており、主の慰めの訴え「 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。」によって引き出されたのです。それは規則にしばられた宗教、「汝はかくすべし」や「汝はかくすべきではない」という古いくびき、荷物であります。「あなたはしなければならない」や「あなたはしてはいけない」というものが、その全体系に築き上げられており、重荷であったのです。
「彼らは重い荷をくくって人の肩に乗せ」と主は言われました。「自分はそれに指一本さわろうとはしません」(マタイ23:4)だからこのレムナントに対する言葉は「奴隷状態から脱出し、自由な空気を吸う」ようなことを意味するのです。皆さんは「使徒の働き(使徒行伝)」の始めにそれらを見いだすでしょう。「勝利者」はこの始めの体験に戻る人々であります。初代教会の人々はより深い教えの何かを、またより輝く光の何かを体験したのではありません。一般の状況に比べて、不幸であるのに、勝利者としてあらわされたものは何よりもキリストにある新生のいのちと満たし(freshness and fullness of Christ)でありました。
(今日の箇所は Overcomer Testimony - Chapter 2 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003131.htmlです。彼は勝利者について5つを指摘します。「死で朽ち果てることのない凱歌」、「奴隷状態からの解放」、「優れていることの堅持」、「難民の意識」、「生き残り」の5つです。今日の項目はたまたまその二番目に当たる文章の全訳になりました。そのためにいつもに比べると多少意味が通じやすい文章になっているのではないでしょうか。)
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