2011年4月15日金曜日

燃え尽きない柴

私たちの資格は神からのものです。(新約聖書 2コリント3:5)

私たちは神の支配下で試練と試みの時を過ごすのです。その結果「主は私たちを欲してはおられない、主は私たちを必要としておられないのだ」と言うような心構えに陥ることはいとも容易なことであります。私たちはすべてなすがままになり、いかなることにも注意を払わなくなります。試練の下にくだかれ、役に立たないものと言われます。私は信じているのですが、主はそのように彼らを扱うためにいつも来られるのではありません。

エリヤは意気消沈して荒野へ逃げました。さらには山の洞穴へと向かったのです。しかし彼は主が関わってくださる前に、どこか他へたどりつかねばならなかったのです。「エリヤよ。ここで何をしているのか」(1列王記19:9)主は人が失望している時に決して人のところに来られず、再び使命を与えることもなさいません。「神は汝を失望以外のことであればどんなことも許される」(F.W.H.マイヤーズ 「聖パウロ」)なぜなら失望は神様に対する信仰がなくなっていて、神様は信仰をなくしている人には何もすることが出来ないからです。

モーセは最後の一滴を残すまで空っぽにさせられました。しかし彼は神様に対して怒らず、不同意になることもなかったのです。 主は何をなさったでしょうか。主は一人の預言者を作っておられたのでした。あらかじめその人は仕事を取り上げられたのでした。彼は主に仕える預言者の働きをし、用いもしたのです。しかしその人と彼が手がける働きの間には内面的な生き生きとした関係は存在しませんでした。それらは二つのばらばらの事柄であったのです。その働きはその人にとって客観的なものでありました。荒野の40年間が終わる時、モーセはこれに対して主体的になる状態に置かれます。何かがなされたのです。


その人が神様のお考えの生き生きとした表現にふさわしい状態へと変えられたのです。モーセは自分自身の考えをなくして、神様のお考えを入れる余地をこしらえたのです。彼は自らの強さを捨てましたので、全エネルギーは神からのものとなったはずであります。恐らくそれがあの火と柴が燃え尽きなかった意味でないでしょうか。それは「たとえ」であり、恐らくもっと大きな「たとえ」でしょう。しかし私が思いますのに、直接的な適用としてそのことはモーセに対する主の言い方ではないでしょうか。「モーセよ。おまえは大変弱い生き物だよ、砂漠の柴であり通常の人間のひとかけらであり、自分自身のうちには全然源泉となるようなものは何もないのだよ。けれども、おまえにどこまでも与え尽くす源泉があるのだ。おまえはおまえ自身でない、神の御霊、神様のエネルギーによって尽きることがなく、いつまでも保たれるものだよ」それがこの預言者が学ばなければならない大きな訓練でありました。「私は出来ません」「それでいいのだ」と主は言われました。そして「だが、わたしはあるものだ」と。

多くのことは主のしもべたちの生来の能力から成り立っていますが、通常は痛ましい結果をともなうのです。たとえば、たくさんの賜物がパウロから出ているのです。「パウロは生まれつき何と優れた男であったでしょうか、何という知性、何という教育、何という驚くべき才能の持ち主であったことでしょうか」そのことは確かに全部本当でしょう。しかしパウロに尋ねてみなさい。彼が自らの霊的な状態に真っ正面から対抗していた時、それらはどんな値打ちがあったか、と。パウロは叫んでいます。「このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょうか?・・・私たちの資格は神からのものです」(2コリント2:16、3:5)パウロはモーセのようにいのちの危険あるところを通らされました。パウロは言いました「ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした」(2コリント1:9)

( この文章の翻訳は当日ネット環境故障のため投稿できなかったので、4/24に行ないました。文章はいつもどおり Prophetic Ministry - Chapter 2です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003149.htmlです。教えられること多大ですね。なお訳していませんが、元旦の文章がここからの引用のようです。)

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