清楚な花、どうして神様はこんな素晴らしい花を私たちに与えてくださったのでしょうか。 |
だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。(新約聖書 マタイ11:6)
神のことばは私たちが神様につまずく可能性があることに注意を払っています。どの箇所でもその可能性は全然起こるはずがないとか、起こらないだろうとは言っていません。主はどこででも、私たちが主につまずくような場合はないとは言われて来なかったのです。逆に彼は私たちがイエス様につまずき、転んでしまい、彼ゆえに落ちてしまう、あなたがたの好みの表現を使えば墜落する機会がたくさんあるだろうということを示して来られました。確かに、そのようになる場合・機会がたくさんあることでしょう。主は決してつまずかないとはおっしゃって来なかったのです。だから私たちもまたそのことを認める方が良いのです。
(誘惑は決して罪ではありません。私たちのすべてはこんなふうに誘惑されるのです。それは多くの別の方法でも同じです。そして皆さんもご承知のように、誘惑は試みの別の言葉にすぎないのです。だから、あるところでは「試み」とも訳されています。そして「試み」、試みられること、もしあなたが誘惑されるということばを使われるならそうでもいいのですが、それにともなう悪は何もないのです。つねに主につまずくように誘惑されるたくさんの可能性が存在すのです。)
主は牢獄にいる可愛そうなバプテスマのヨハネに向かって非難の言葉を送られませんでした。ヨハネはその時、自分のおかれていた状態のゆえに主につまずく危険性と背中合わせの状態にあったのです。主はヨハネの質問※ゆえに(気分を悪くして)辛く当たられませんでした。主がもし別の人間だったら恐らく次のように言ったかもしれません。
「だが、ヨハネよ、あなたはわたしを神の小羊と指し示しませんでしたか。わたしがメシアだと主張しませんでしたか。たくさんの群衆にわたしについて説教して来なかったですか。あなたがわたしについて信じていることを最大級の強力な宣言・確信を次々繰り返して用いたのではなかったですか。ところが、今ここであなたはわたしについて根本的な疑問を提出しているのです。何があなたを悪くしたのですか」と。
そうです。主は全然そのようなことは何もおっしゃらなかったのです。主は私たちがちりにすぎないという成り立ちを知っておられます。そこで私は言いたいのです。主は私たちが今現在、主につまずくかもしれない弱さに絶えず注意を払っておられる、と。けれども、主はもし私たちが主の道という「つまずきの石」につまずき倒れないなら、このことに特別な祝福をもたらされるということです。「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです」つまずく可能性があります。その可能性にいたる理由もあるからです。
(今日の箇所は Blessedness of the Unoffended の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003156.htmlです。※マタイ11:3「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか」を指します。この文章は1959年のメッセージの聞き取りの記録のようであります。この話は序の方であって話はさらに旧約のエリヤ、エリシャに移ります。主題聖句に2列王記2:1~15、マタイ11:2、ヘブル10:35などがあげられています。 さて「十字架」は主が私たちに与えられた最大のつまずきではないでしょうか。しかし「十字架」は私たちのすべての債務を帳消しにするものであり、復活の永生を約束するものであります。昨日も書きましたが、イエス様によって七つの悪霊を追い出してもらったマグダラのマリヤも、疑り深いトマスという弟子も、一番弟子ペテロも、そしてイエス様の弟であるヤコブも「十字架」につまずいたのです。のちに使徒となったパウロもユダヤ人としてイエス様の「十字架」につまずいたのです。しかしパウロはのちに「十字架のことばは滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です」1コリント1:18と言うことが出来たのです。)
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