2011年4月20日水曜日

人の思いと主の思いのすれちがい

知人からいただいた花
まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。(新約聖書 ヨハネ6:53)

この方式はつねに肉にとって、つまり生まれながらの人間にとって反対となる方式であることを覚えましょう。ユダヤ人はお互いに言いつのりました。「この人は、どのようにしてその肉を食べさせることができるのか」と。しかしユダヤ人、すなわち宗教的な自己満足のうちにあった宗教的な人々だけが一緒に言いつのっただけでなく、こうとも書かれているのです。「そこで、弟子たちの多くの者が、これを聞いて言った。『これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。』」弟子たちでさえ、いつしかともに歩き続けることができなくなったのです。

弟子たちがこのような言い方のうちにある言外の意味に直面するようになった時、彼らはもはやその種の基盤の上に主との交わりを持とうとはしなくなったのです。肉は自分で事を行ない、計画を立て、整え、仕事を組織し監督し実行させることを大変好みます。肉はそのことを大変喜びます。

だから、皆さんがそのすべての物事の秩序を見て、神の方法は完全に依存と信仰の道、すなわち完全な命令のうちにある聖霊をともなうものだと言い、一切自らは手出しせず主があなたに話されることだけを行なう意志がなければならない、そしてもはやそれ以上のものはない(それは「わたしは自分からは何事も行なうことをしません」という宣言の意味するところですが)と言う時、それは生まれながらの人間に対する反対なのであります、もちろん宗教的なことにおいても。

私たちは絶えずそのことに直面しているのです。そうでないですか。弟子たちがアンテオケで祈って主の御心に関してその証拠を得ようとともに集まったことと、提案を議論し計画を立てるために集まり委員会を持つことの間には違いが存在するのです。もし生まれながらの人間がすべてのことをせず、整理もせず、命令もせず、全てのことを実行もしないのなら、その人は前進することは全然不可能だと思います。もし皆さんが計画を持って出て来ず、またその計画を話さず、あなたがしていることも話さず、統計数値を述べないなら、生まれながらの魂を持つクリスチャンは何事もなされないと思います。(しかし)その種の活動がいくつもなく、なされる素晴らしい事を体験することは可能なのです。私たちはそのようなことを純粋に実例として引証しているのです。適用は多くの方面に広げられることが出来ますが、これは思考を助けるものに過ぎません。

キリストにある神の全業績は信仰をとおして仲介される神のいのちの基盤の上にあるのです。それは別の言い方をすれば、キリストが霊的な道において、すべての基盤とならねばならないのです。 これは肉は反対しますが、御霊は満足するのです。

(今日の箇所は The Risen Lord and the Things Which Cannot be Shaken - Chapter 7 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003154.htmlですが、何カ所も意味の不鮮明な訳になっていて申し訳ありません。この章の文章は今日追加訳出しました4/16「いのちと水」と同じところのものです。全体の題名は「隠れたマナ」となっていて、ヨハネ4:31~34;6:28~32,34,38,53~58;7:17が通読箇所となっています。)

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