震災一月目の昨日は曇天から一転雨模様になった。直前古利根川の小学校近辺で見事な桜に出会う。その後電車に乗って出かけたが、車内で地震にあった。東日本に繰り返される地震一体いつになったら終息するのでしょうか。 |
主が・・・御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき、私はすぐに、人には相談せず・・・(新約聖書 ガラテヤ1:15~16)
私にはわかりませんが、使徒たちは、もしパウロが会いに行っていたとしたらどんなことを言ったでしょうか。けれども、パウロが経験した啓示を持たず、またパウロが異邦人の使徒として召命を受けたのに、受けていなかった使徒たちは、パウロが経験したことに対して穏健になりなさいとか注意しなさいと助言したかもしれません。彼らはパウロに、あなたは騙されているのではないか、その導きは間違っているのでないか、よくよく考えなさいと話したかもしれません。こんなことは以前何も経験しなかったからです。(このことに関してパウロは独断的だと言われ、それゆえ偏向的に受け取られたかもしれません。)
交わりはつねにいいことでありますし、体験は役立つという点ではつねに用いられるべきものであります。それに対して、心から話をし主の道が私たちのためであることを大変明確にすることが主にとって問題である時、私たちは主に対する応答をいかなる方法でも自ら区切ってみたり、主への服従を妨害するような影響によって屈服させられないように、大変注意深くあらねばなりません。
あらゆる決まりからの孤立があり、天からの啓示をおとしめることでしょう。もし本当に他の人々が御霊の支配下にあるなら、助けになるでしょうが、天からくる幻を実際に目の当たりすることにあっては肉による完成はなされないことに注意しなければなりません。私たちはしきたりに問うてみたり、常識的に受けとめられることは何なのかと尋ねたりするかもしれません。一般に受けとめられることを重視するなら、あなたは後退することでしょう。
主はあらゆる方面の単なる自由契約者には反対されます。主の命令は主のからだ(すなわち教会)にある交わりです。それにもかかわらず私たちが主が私たちに言って来られたことに関して、ある種の生来の影響に屈し、人や物を支配する要因から勧めを受け入れ、自分たちで方向を定めるなら、自由をなくし、おそらくは天からの幻には従わなくなるでしょう。こんなふうにして損なわれた生涯の数々を私たちは知っています。
もし主のことで交わりがあるなら、交わりを用いましょう。けれども私たちはその上で次のことを確信させていただきましょう。私たちは外面的に物事をとらえないということ。また光のうちになかったり、いのちのうちになかったり、天的な良きことでなかったりする影響には屈しないこと。最後に完全に聖霊の支配下にあること以下の何ものからの方向づけも受けないこと、以上であります。
(今日の文章は That Which Was From The Beginning - Chapter 3 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003143.htmlです。訳者の英語力のなさで誤訳の恐れを覚えます。文章全体はアブラハム、モーセ、ダビデ、エチオピアの宦官、コルネリウスなどの例をあげ首肯的であります。以前にもこの文章からは訳してあります。2/11「信仰とは啓示に従う道」というのがその題名です。今日の文章の前の方に当たります。今振り返ってみるとそちらの方の文章も今だったらこんなふうには訳さないのにと思ったりするところがあります。一年のちに、もし許されれば推敲し直したいです。とうとう原発はチェルノブイリと同程度と見なす発表がなされたようです。ショックです。でもこのことも主から来ていることです。厳粛に受けとめて自己のなすべき責任を主から教えていただきたいです。東北の被災者の方々の上に心から主の上からする慰めがありますように祈るばかりです。)
0 件のコメント:
コメントを投稿