2011年4月2日土曜日

自我が砕かれること

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスはご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍ばれました。(新約聖書 ヘブル12:2)

十字架の苦しみは私たちを解放する道です。もし皆さんが自分自身の霊的体験を顧みられるなら、神様とともに歩む経験をいささかなりともしておられる方々は、肉が解放されることを知ったのは深い突き刺すような苦しみの時を通してであったことはよくご存知でしょう。肉は霊的な生活の中で解放されるのです。そのことは真実でないでしょうか。

そうです。私たちは霊において魂において苦しめられる時にさしかかります。私たちには主がなさっていること、主がこの苦しみによって試みられていること、背後に主がおられることがわかりません。だが、私たちは自分の経験の特徴を知り、私たちが被(こうむ)っていることがどんなことか知ります。そしてそれは続きます。

私たちはもちろん主に止めてください、早く終わらせてください、そこから私たちを解放してくださいと求めます。主は私たちを気に留められません。it is only those people who get out the other end who say, ‘Thank God, He did not take any notice.’ そうこうしているうちに、私たちは考えます。主は親切や良いことや正しいことを行なう以外の何物でもないのだと。しかし、主の御手のもとにへりくだる時、私たちは主がなさっていることを知り意識し始めます。恐らく、主は、たとえば私たちの誇り、主に頼らない心あるいは無責任さにメスを入れられている、と。それが浮かび上がって来る要点です。四六時中自分自身についてほとんど困惑させられることに直面させられます。もしそういうことがなかったらそれがそんなに私たちのうちに強力に存在したとは信じなかったでしょう。

もちろん私たちはつねに一般的に言って、人間の一人として人間にまた自分たちにもそれがあると信ずることにやぶさかではありませんでした。そうです。私たちは私たちにそのような誇りや何かがあると話されるなら、腹を立てることはなかったでしょう。しかし、そのことが厳しい試みに入り全てがお手上げになるまでは、どんなにそれが深く根ざしていて、恐ろしく強いものだとは信ずることがなかったのです。私たちは神様のための私たちの生活や働きはすべてその点で降参せざるを得ないと知りました。厳しい試練です。

皆さんは今私が話していることがお分かりでしょうか。私たちがその所与の時の問題点が極めて明白であると知り、それを主のところに持って出ることができ、そうすると、完全に究極的に取り扱われ、その時、私たちは新しい戸が開くのを発見します。それは新しい解放感であり新しい可能性です。そして私たちは次のことを全く良く知るのです。すなわち、主が背後におられることは私たちが考えているように、私たちを砕くこと、また駄目にすることでなく、拡充をもたらすことであり、解放をもたらすことであり、解放がつねに十字架、苦しみの線に沿って備えられているということです。拡充はつねにその方向のうちに存在するものです。

(今日の箇所は The Cross and the Way of Life - Chapter 1 の抜粋引用訳です。この「十字架といのちの道」とも訳せる題名のものはすでに1/1、1/7「自我、このやっかいなもの」、1/24「主に仕えるとは?モーセの場合」、3/3「わたしのことばは火のようではないか」、3/25「十字架の原則」と何度も引用のあるものです。1/1のものは訳していないものですが、現在のホームページ主催者がいかに重要視しているかがわかるというものです。それだけに訳業の未熟さが情けなくなります。なお原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003113.htmlです。文中の英文は何となくわかるような気もしますが、どうしても構文がつかめません。英語の専門家の方の訳を投稿してくださると助かるのですが・・・。なお後半の文章はややこしくなるので、というよりうまく訳せないので一部カットしました。)

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