私はそれを人間から受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。(新約聖書 ガラテヤ1:12)
確信と確証はパウロのクリスチャン生活と奉仕の根本において正しいものでありましたが、それはひとえに次の一事によるものでした。すなわちパウロはすべてのことをイエス様にあって見たということです。すべてのものを・・・イエス様にあって。どんな解放が彼に与えられたのでしょうか。そうです、どんな解放が、です。私たちはこれまで度々話してきたことですが、この世は全く力がなく、狂信的なユダヤ人であるタルソのサウロをクリスチャン、そしてナザレのイエスを恋い焦がれる者とは決してなし得なかったのであります。いかなる力もこの世にはなく、そのような大転換はなし得なかったのです。しかしこんな風に、イエス様ご自身を見ることがまさしくその大転換をなしたのです。彼は解放されました。自由になりました。
あらゆる彼の書き物の中でガラテヤ人にあてた手紙がもっとも激しいものであることは驚くに値しません。キリストにある私たちの自由についてしるしたその手紙は「神様は私に御子を啓示され、その結果私はあらゆる事柄について自由にされました」ということで始まっています。あれやこれやには限界があり、そこから脱出して自由になるべきだと人々に話すことは無用であります。それは実がありませんし、無駄なことであります。実にどなたと行をともにするとも危険な道であります。
けれども繰り返しますが、もし私たちがただキリストをあらゆる神の重要性と意義と包括性を持つ方として人々に紹介し、聖霊が人々の心のうちにキリストを啓示することが出来れば、自由になるのです。そうなれば人々は二度と決していかなるものにも満足しないでしょう。それまで人々は宗教上の厳格な聖職者に制約されていたからです。パウロはユダヤ教から解放されました。それは他の何ものもなさなかったことであります。
逃れ道、自由への道、忍従の道はイエスを見ることです。学ぶことによるのではありません、すなわち数々の学校に通うことにはよらないのです。パウロは彼がかつて通った学校のすべてを・・・宗教のすべてを獲得しました。しかし、パウロはそれを学校教育によって獲得したのではありませんでした。だから、私たちも学校教育を通して獲得できないのであります。その教育の道とはクリスチャンや宗教上のすぐれた教授を指すのではありますが。しかし、私たちが言っているこの道は単なる精神的な、あるいは学問的な、または知的なものでは決してないのです。それは聖霊による働きなのであります。
( 今日の記事は Revelation of Jesus Christ - Chapter 7 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003132.htmlです。)
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