ユダの家ののがれて残った者は下に根を張り、上に実を結ぶ。(イザヤ37:31)
主は流され得ないものをお持ちにならねばならない。それは、動かされず、揺り動かされず、それゆえに確かに根こそぎにされ得ないものに違いない。それが主の選ばれた残りの民だ。主はご自身の栄光のために残りの民を持たれねばならない。そして残りの民がそうなるように主はあらゆる手段を用いて、彼らが下に根を張る性質にしたがうようにされる。もちろん上に実を結ぶためだ。
上に実を結ぶこととは、すなわち天的いのち、天の御座に座ること、そして主とつながっていただく私たちの豊かな実である、働きと戦いについてたくさんのことが語れる。それはひとえに私たちの根が張られて初めて可能なのだ。根が張られるためには私たちは何物も転覆し得ないように根がしっかり根づき揺り動かされるところのない場所へと到達しなければならない。今日そのことは主がご自身の霊的な民とともになしておられることの非常にたくさんの事例を説明することだと私は信じている。
神の真の子どもが今日強烈な試みを通過し霊的に試されていること、いずこにあってもそうだということはまことである。何故だろう。主は地獄が無能力であり、それによって全宇宙にご自身の権能の力を証明するものをお持ちになっているからである。その権能によって立ち続け抵抗するのだ。もし誰かが今の時代の教会にとって究極の問題は何かと問われたのなら、私なら教会が立ち続けることだと言いたい。そしてそれはものすごいことを言っているのである。それは確かに限定したことだと皆さんはおっしゃるだろう。しかし、皆さんはそれ以上のことをもっと期待しないのだろうか 。つまり進歩、前進、一掃する動きをだ。教会は身を粉にして最後まで立ち続け、その働きが勝利となるであろう。
あらゆるものがあなたのまわりで大吹雪のように吹き荒れる時、すべてが暗くなり怪しげになり、神様までもが遠くになり、おられないかのようになり、信仰が試され、右左と攻撃され、表面上はあなたが行動し、あきらめ、倒れ、降参し、立たんがために水準を下げるあらゆる理由が存在する。しかし信仰にあって動かされないことが最大の可能性のある勝利となる。私たちは深い経験を通過しており、敵がそれをなしているが、主は敵を妨げられない。しかし私たちは私たちの神の御力をさらに完全に知り、あらゆる以前の動揺にまさってさらに深く根を下ろすようになる。こうして主は揺り動かされない民を持とうと探し求めておられる。彼らに対しては傲慢と高慢をもって誇示する地獄は何も出来ないからだ。「のがれて残った者は下に根を張り、上に実を結ぶ。」それが主が必要とされることなのだ。
(今日の箇所はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003003.htmlです。)
2017年1月5日木曜日
2011年5月18日水曜日
主は私たち一人一人に型紙を持っておられる
| このところ、庭に薔薇がそれぞれ、一斉に咲き乱れています。今日の薔薇です。 |
しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。(旧約聖書 イザヤ64:8)
私たちは主の御手の中にあり、悪魔の手の中にいるものではありません。私たちは主の御手のうちにあります。だから、私たちは主の御手のうちにあって、主が背後におられることをご存知である陶器師であるお方の手の中にいるのです。
先ず第一に器は陶器師のうちにあります。そしてそれからゆくゆくは陶器師が器の中にいるのです。言いたいことは、陶器師が(作業を)始める以前に器は陶器師の心の中にあり、心の中で極めて明確に描かれているということです。その器の型は外にあるものでなく、すでに陶器師の中で完成されたものなのです。そしてそれから彼は仕事に取りかかります。やり終える時、陶器師は彼が骨折った器の中にいるのです。彼のうちにあったものが器となったのです。
私たちは人々の働きについて言います。「私はそれを作った人を見ることができる。それは全く彼らとそっくりだ。」「 それはそのようにものを作る誰それさんとそっくりだ。」そうです、主は主の働きの中におられるのです。主は主が造られる器の中におられます。そしてそれはまさしく主がなしておられることなのです。
時にはその粘土は形をなさない固まりに押しつぶされ、ちぎられなければなりません。そのことは主が示そうとしておられる全部を示すものではありません。欠陥や割れ目があるので主はそれを押しつぶして形のないものにされるのです。ひとつの形のないかたまり。けれども再び作業が始まるや以前あったよりももっと完全なもの、すなわち主御自身がうちにおられるものになるのです。
願わくは、主が私たちに試練がどんなものであってもそれに耐える恵みを与えてくださいますように。その試練が、たとえ嵐や炎熱や酷熱のようなものかあるいは主の御手による圧搾のようなものであったとしても、それらのすべては私たちが動揺されることがないように、また地獄も揺り動かすことができないように、主の御力が敵のあらゆる力を圧倒する勝利を示すところへと連れて行ってくださるためであるからです。
(今日の箇所は Rooted and Grounded の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003187.htmlです。 この文章は前回のこの項目の文章の次に位置し、全体としては掉尾を飾る文章です。従って前の文章の訳も読んでいただけると、より文意が通ずると思います。なお今日の標題は「泉あるところⅡ」で二三日前に紹介しました友人が「ものつくり」の達人でしたが、それにちなむものになりました。彼は何よりも型紙をつくることがその作業の最初であり、それが彼の創造の喜びを支えているもののようでした。ましてやまことのいのちの与え主が私たち一人一人にそのご計画をもとに働いていてくださらないはずはありません。「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された」(創世記1:27))
ラベル:
Rooted and grounded
2011年3月17日木曜日
キリストにある永遠のいのち
| 暗闇を 照らす蝋燭 罹災者 のうめき叫び 聞き輝けり |
もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。(新約聖書 ローマ6:5)
私は皆さんに思い起こしていただきたいのです。このつぎあわされるということの本質はまことに私たちが大変慣れ親しんでいることであるということです。「 キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じように」これは使徒のことばです。
「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。」非常にしばしば敵(がやること)は私たちがもっと深くキリストの死につぎ合わされるための道具(にすぎないということ)であります。彼の脅迫、攻撃、告発すべてのものがそうなんです。
主は悪の源泉ではありませんが、主が悪をお許しになっているのです。非常にしばしば私たちの心は叫びます「なぜ、主は私たちの生活にそんなことをいつまでも許されたのですか」それほど深刻で暗い経過をたどってきた、そのことを指してです。
なぜ主は許されたのでしょうか。主はそれを妨げようと思えば出来たことでしょう。いいでしょうか。私たちは主イエス様の死につぎ合わされたのです。私たちは自身の目的から言って、かつてよりももっと多くのものを授けられたのです。そうです。だから私たちがかつて主を知っていたよりももっと大きな尺度で主を知り、今度は悪魔が私たちを揺り動かすことがそれほど容易でないところへと招かれるためなのです。
それがもっと深い死の経験をなさった神様の支配的な方法であります。「 キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じように」皆さんは初めそこにつぎ合わされなさいましたか。十字架におかかりになったキリストのうちに根ざしなさいましたか。それともあなたは何か(別のもの)に愛着している者のお一人ですか。あなたは(果たして、キリストに)根を下ろしていらっしゃいますか。
もっと深く根を下ろす必要がある時、それは深く掘り下げられることであり、その要点は最も確かなこととして立つための忍耐、持続、能力が導かれつつあること、ああー、ですが、さらに多くの実が実ることであることを(是非)覚えていただきたいのです。
(今日の箇所は Rooted and Grounded の抜粋引用訳です。 原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003097.htmlです。昨晩は初めて停電の洗礼を当地でも経験しました。停電解消後のNHKTVで見た被災者の方々の苦悩を思うとき、もはや言うべき言葉を失し、家族中、呆然と画面を見射るばかりでした。しかし、聖書はそんなわれらに主イエス様の十字架の死を覚えなさいと繰り返し「神の愛」を語っています。「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」「恵みが、私たちの主イエス・キリストにより義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させる」ローマ5:9、21 )
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