ラベル The rest and the courage of faith の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル The rest and the courage of faith の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2011年6月6日月曜日

あなたは主の安息が欲しくないか?

わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。(新約聖書 ヘブル3:18)

私たち自身が安息を経験するまでは、また、経験していないなら、救われていない人のところに行ってキリストのところに来て休みを見つけなさいと勧める資格はありません。もし私たちが安息を経験していないなら、私たちの証や宣教は台無しにされ、弱くされ、力のないものになり、 信用の置けないものになります。そしてこれがこのことにおける敵の活動の目標であります。私たちの信用をなくさせることは、私たちが、主と結びついている相続権そのものを奪うことによってなされるからです。主は決して不安を持たれず、心配されず、すべてを治めておられるお方を決して疑われません。皆さんがおわかりのように、安息は神が主であるという信仰の実際的な現われであります。

(信仰の安息が私たちの態度でなければなりません。それは、義とされているという大切な問題においてであります。もっとも、もしそのことが今解決されておらず、将来も解決されていないのならばでありますが。ああ、敵は神の民に対してまさにそこ(神の民が義とされていること)を攻撃します、敵はそれを削ぎ落そうとつねに求めています。つまり義とされていることを再び疑わせるような方法を用いてです。敵は決してその削ぎ落しの試みをやめません。
 彼の方法は数えきれず、かなりしつこく、強力であります。信仰の安息は 毎日、何百もの(敵の)方法が信仰の安息、すなわち安息をもたらす主による信仰へと立ち向かう機会をとらえて働くのです。その方法は大変巧妙なので、そんなことは余りにも小さすぎるので主を患わせることは出来ないと私たちに言わせるほどなのです。つまりそれはちょっとしたことです、なぜ主にかまってもらうのですか。主はもっと大きく重要なことをかかえておられます。なぜ主にあなたの使い走りをさせてあなたが欲している小さなことまでも全部してもらおうとしているのですか、と。
 もしこのうちにその証が安息のうちに維持されるなら、その時、それは主にとって大きなことであり、小さなことではありません。もしこの問題において主のご栄光が苦痛に立ち向かうなら、それは非常に大きなことであります。日常生活においては偶発的なことかもしれませんが、そうです、毎日、実に多くの方法であなたがたと私は非常にバランスをなくし安息を失い確信を失うので霊的に敗北するのです。主は多くのものをなくし、その結果、信仰がいつしかなくなってしまい、それとともに安息がなくなったことが明らかにされるのです。それは一面です。それは私たちにとって挑戦でありますが、本当の挑戦であります。
 「彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります」できないとは、私たちを無力、不適格、無能力にさせる不信仰です。そのことは私たちがこの全体的な問題に直面するのが早ければ早いほど、出来る限りそれだけよりよく解決されるのだということを意味しています。38年間イスラエルは閉じ込められ、進めなくなり、ぐるぐる回っていたに過ぎないのです。言わば、それはイスラエル人が神様を信じ続けるかどうかに関するこの一つの問題でありました。物質的なことが生起しました。なぜなら荒野における生活は物質的なことが大きな問題であったからです。主は物質的な条件を変えられませんでした。主は何よりも人々自身の内側の変化を求めておられたのです。すなわち物質的な条件は主が人々の内側の変化を得られた時、解決されたのです。主によって信仰の問題が解決された時、それから主は物質的なことを処理されたのです。
 問題は状況的、情動的、知的、意志的な領域で起こりました。挑戦があらゆるそれぞれの線に沿って無数の方法でなされました。皆さんはイスラエル人のあらゆる経験を取り上げてそれぞれがどれほど信仰にとって挑戦的な特別な形態であったかを知ることが出来ます。その挑戦はほとんど日毎にその局面や形態において変化していましたが、挑戦そのものはみな同じものでした。挑戦はあらゆる種類の線に沿ってやってきました。主はそれを決して変えられず、妨げもせず、状態が丸ごと代えられることも許容なさいませんでした。しかしつねに一つのことに的が絞られてたのです。問題になるのは内なる人であります。その内なる人の問題が解決されるまでは、主は、すべての他の事柄を処理なさらなかったのです。
 いいでしょうか。それは包括的なことであります。)

私たちの状態を説明するかくかくしかじかのことがどうしても必要だと考えないでください。これらが諸要因に寄与しており、非常な試みとなり、私たちに非常に重くのしかかっているのかもしれません。物質的なことは—そうです、それらが圧迫し、状態を非常に困難にし、影響を及ぼすのです。私たちが生活しなければならない環境は多く違っており、それらが状態を非常に困難にしています。

私たちは言うのです。もし、主が、この物質的な条件、これらの環境、またこの他のことを扱ってしさえしてくれれば、すべてはそれによる、それが原因であり、理由なのだ、と。それが私たちの推論の仕方です。けれどもそれは全然主のお考えではありません。事態はそれよりももっと深く掘り起こされることであり、それは神様を信ずることに他ならないのです。つまり断固とした信仰、神様に対する確信です。

主は、私たちを、その変わりやすい、そして感情や思想や推論やあらゆるその種のことがらを慈しむという変わりやすい、たましいの生活から、霊的に確固としている領域へと引き出そうとされているのです。それが詩篇の中にすべて据えられている要点であります。「彼らの心は神に誠実でなかった」(詩篇78:37)そしてイスラエル人の40年のすべてはそのことばの周辺に集約されるのです。これに対する鍵は霊的であります。すなわち一切の他の方向により、一切の他の手段によって試されるものです。それが究極的に霊的なことであるという意味です。主の御霊によって内なる人が(エペソ3:16)強くされることがそのすべてに対する答えであります。

(今日の箇所は The Rest and the Courage of Faith の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003213.htmlです。訳があまりよくありません。小文字のところは原文の前後の文章です。本文の文章はこのあとカレブとヨシュアの例が述べられていて首肯的であり、その訳をつけ加えると良いのですが・・・)

2011年4月26日火曜日

安息への真の招き

各地でハナミズキが今や盛んですね
安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。(新約聖書 ヘブル4:9)

私が、私たちクリスチャンは常に私たちのキリスト教と対決させられ、挑戦を受けていると言おうものなら、皆さんの多くの方にとって、この言い方は長い歴史を逆戻しし、非常に広い分野に出るものに聞こえることは確かです。私たちの多くは本当は今までキリスト教に入ったことがないのです。私は何を言おうとしているのでしょうか。いいでしょうか。一例をあげれば、キリスト教へのとびらそのものは安息のとびら、信仰による安息ということです。主が訴えられた極めて簡素な道は「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい、わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)でした。

それは群衆に対してでした。そしてこれらのことばは救われていない人への福音メッセージとしてつねに使用されています。主がこれらのことばをお用いになった時の意味はヘブル人への手紙のここで言われているように、あの簡素な招き、「わたしのところに来なさい・・・わたしがあなたがたを休ませてあげます」 として一般に認識されているよりは、はるかに深い、また完全な意味として与えられているのです。「ですから、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです」との言明には私たちが聞いて悟らなければならないものが確かにあるのです。

もし皆さんがこの文章を文脈から見るならば、意味は神の民がまだ経験していないことであります。「彼らは不信仰ゆえに入ることが出来なかった」(ヘブル3:19)彼らは入ることが出来なかったのです。彼らとは誰ですか。神の民です。安息が残されているのは依然として神の民のためなのです。安息を未来に据えることがないようにしましょう。それは全然そういう意味ではありません。のちに、私たちは栄光のうちに天の故郷につき、安息日の休みに達し、休息に入ることでしょう。しかしここで言う安息は墓石の安息、彼あるいは彼女が休息する安息の意味ではありません。今、現在神の民のために残されており、死においてでなく、生において残されているものです。安息は残されているのです。

皆さんは私が余りにも初歩的なことを言っているとは思わないでしょう。なぜなら、私が自分の心のうちに経験していることはもちろんのこと、皆さんもご自身の心のうちに経験しておられることは、この心の安息のこと、すなわち信仰の安息が、絶えず生きている問題であり、始終それは話題に取り上げることだからです。私たちのかなりの数に上る人たちに欠けているものの一つがこの安息であります。逆に言いますと、私たちを大きく特徴づけていることと言えばそれはいらいらであり、心配事であり、不安定であります。まさしく落ち着いた確信、静かな信頼、いつも「心配しないでね、いらいらしないでね、大丈夫だから」と言うような精神や態度や雰囲気とはまるで反対のことばかりです。私たちの敵がつねにしようとしていることはその安息を妨害し、壊し、奪い、かき乱し、いらいらさせ、悩ませ、私たちが安息に入ろうとすることを妨げたり、私たちから安息を奪ってしまうことなどであります。

安息は信仰の安息であって、無抵抗や無関心や不注意から来る消極的な安息ではありません。不注意によって何も知らないでいることと問題があるのに心配しないこととの間には天と地の開きがあるからです。神の民に対する安息は残っているのです。いまだに持たれねばならないものであり、獲得するもの、存在するもの、保持されるべきものであります。まさしく安息は神の民のためのものであります。

私たち自身が安息を経験するまでは、また、経験していないなら、救われていない人のところに行ってキリストのところに来て休みを見つけなさいと勧める資格はありません。もし私たちが安息を経験していないなら、私たちの証や宣教は台無しにされ、弱くされ、力のないものになり、信用の置けないものになります。そしてこれがこのことにおける敵の活動の目標であります。私たちの信用をなくさせることは、私たちが、主と結びついている相続権そのものを奪うことによってなされるからです。主は決して不安を持たれず、心配されず、すべてを治めておられるお方を決して疑われません。皆さんがおわかりのように、安息は神が主であるという信仰の実際的な完遂であります。・・・

(今日の箇所は The Rest and the Courage of Faith の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003164.htmlです。最初から訳しにくい文章で最初の数行は日本語をあてはめてみたという程度であり、意味が鮮明ではなく申し訳ありません。賢明な読者の方の助言が欲しいところです。また文章全体も誤訳の恐れが多分にあります。指摘してくださると感謝です。ただし文章全体は非常に意味の深い内容があるように思います。当然ですが・・・。アンドリュー・マーレーにThe Holiest of Allという作品があります。それと照らし合わせたかったのですが、今回は出来ませんでした。次の機会にチャレンジしたいと思っています。なおスパークス氏が引用している聖書箇所はヘブル4:9、ヘブル3:19、ヨシュア14:6~14です。)