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安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。(新約聖書 ヘブル4:9)
私が、私たちクリスチャンは常に私たちのキリスト教と対決させられ、挑戦を受けていると言おうものなら、皆さんの多くの方にとって、この言い方は長い歴史を逆戻しし、非常に広い分野に出るものに聞こえることは確かです。私たちの多くは本当は今までキリスト教に入ったことがないのです。私は何を言おうとしているのでしょうか。いいでしょうか。一例をあげれば、キリスト教へのとびらそのものは安息のとびら、信仰による安息ということです。主が訴えられた極めて簡素な道は「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい、わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)でした。
それは群衆に対してでした。そしてこれらのことばは救われていない人への福音メッセージとしてつねに使用されています。主がこれらのことばをお用いになった時の意味はヘブル人への手紙のここで言われているように、あの簡素な招き、「わたしのところに来なさい・・・わたしがあなたがたを休ませてあげます」 として一般に認識されているよりは、はるかに深い、また完全な意味として与えられているのです。「ですから、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです」との言明には私たちが聞いて悟らなければならないものが確かにあるのです。
(もし皆さんがこの文章を文脈から見るならば、意味は神の民がまだ経験していないことであります。「彼らは不信仰ゆえに入ることが出来なかった」(ヘブル3:19)彼らは入ることが出来なかったのです。彼らとは誰ですか。神の民です。安息が残されているのは依然として神の民のためなのです。安息を未来に据えることがないようにしましょう。それは全然そういう意味ではありません。のちに、私たちは栄光のうちに天の故郷につき、安息日の休みに達し、休息に入ることでしょう。しかしここで言う安息は墓石の安息、彼あるいは彼女が休息する安息の意味ではありません。今、現在神の民のために残されており、死においてでなく、生において残されているものです。安息は残されているのです。)
皆さんは私が余りにも初歩的なことを言っているとは思わないでしょう。なぜなら、私が自分の心のうちに経験していることはもちろんのこと、皆さんもご自身の心のうちに経験しておられることは、この心の安息のこと、すなわち信仰の安息が、絶えず生きている問題であり、始終それは話題に取り上げることだからです。私たちのかなりの数に上る人たちに欠けているものの一つがこの安息であります。逆に言いますと、私たちを大きく特徴づけていることと言えばそれはいらいらであり、心配事であり、不安定であります。まさしく落ち着いた確信、静かな信頼、いつも「心配しないでね、いらいらしないでね、大丈夫だから」と言うような精神や態度や雰囲気とはまるで反対のことばかりです。私たちの敵がつねにしようとしていることはその安息を妨害し、壊し、奪い、かき乱し、いらいらさせ、悩ませ、私たちが安息に入ろうとすることを妨げたり、私たちから安息を奪ってしまうことなどであります。
安息は信仰の安息であって、無抵抗や無関心や不注意から来る消極的な安息ではありません。不注意によって何も知らないでいることと問題があるのに心配しないこととの間には天と地の開きがあるからです。神の民に対する安息は残っているのです。いまだに持たれねばならないものであり、獲得するもの、存在するもの、保持されるべきものであります。まさしく安息は神の民のためのものであります。
(私たち自身が安息を経験するまでは、また、経験していないなら、救われていない人のところに行ってキリストのところに来て休みを見つけなさいと勧める資格はありません。もし私たちが安息を経験していないなら、私たちの証や宣教は台無しにされ、弱くされ、力のないものになり、信用の置けないものになります。そしてこれがこのことにおける敵の活動の目標であります。私たちの信用をなくさせることは、私たちが、主と結びついている相続権そのものを奪うことによってなされるからです。主は決して不安を持たれず、心配されず、すべてを治めておられるお方を決して疑われません。皆さんがおわかりのように、安息は神が主であるという信仰の実際的な完遂であります。・・・)
(今日の箇所は The Rest and the Courage of Faith の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003164.htmlです。最初から訳しにくい文章で最初の数行は日本語をあてはめてみたという程度であり、意味が鮮明ではなく申し訳ありません。賢明な読者の方の助言が欲しいところです。また文章全体も誤訳の恐れが多分にあります。指摘してくださると感謝です。ただし文章全体は非常に意味の深い内容があるように思います。当然ですが・・・。アンドリュー・マーレーにThe Holiest of Allという作品があります。それと照らし合わせたかったのですが、今回は出来ませんでした。次の機会にチャレンジしたいと思っています。なおスパークス氏が引用している聖書箇所はヘブル4:9、ヘブル3:19、ヨシュア14:6~14です。)
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