2011年4月21日木曜日

Thou desirest truth in the inward parts

花よ我が 心となれ 日に照らされ 明日キリストの 受難日なり 
ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。(旧約聖書 詩篇51:6)

私たちの霊的な歩みのなかで神様はもっとも深いところで私たちを取り扱われるのです。神様は下へ下へと降りて来られます。それは私たちの大変深い点で物事が明らかになるように底辺に触れるまで続きます。神様は私たちが専門とすること、主義、様々な思い込み、自負心、幻想、それに様々な習慣を次々削ぎ落とされるのです。

これについては単なる形式主義はありません。またこの中には、単なるユダヤ教の儀式も、表面的な儀式もありません。そうです。これはもっとも心の奥の領域、すなわち心のうちに達することでなければなりません。神様はその方向に沿って働かれます。神様はつねにもっとも深奥部にむかって働かれるのです。あなたはそのことを認めますか。神様が私たちを取り扱っておられることを理解しますか。

ああ、神様は私たちが神様の前を、あの詩篇第一篇の人のように歩く時、一定の祝福をもって私たちと出会ってくださることでしょう。また私たちが背き、律法に違反し、失敗し悪をなすとき、私たちにやさしい備えをもって出会ってくださることでしょう。神様は恵みをもって会ってくださるのです。ただし神様はこの問題を私たちの存在のもっとも内側のところまで追求され、そのところで恵みと贖いの働きを刻印されるのです。

三位一体の神、父なる神様、御子、聖霊はこの一つの性格、すなわち真理によって特徴づけられています。そして神様はその神の性質の分与者である人を喜び、ご自身の心に銘記してくださるのです。だから神様がこの目的に向かって絶えず深く深く働いてくださるので、すなわち主御自身の真実は神の子(神によって生まれさせられた者)の真実となり、この意味でそれらの人は当然神の本当の子となるのです。

(今日の箇所は Truth In The Inward Parts の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003155.htmlです。今日の箇所は短い文章で読みやすいですがやや粗雑な読み方しか出来ていません。詩篇51篇をひもとき味わわれると心の深奥部で主は私たちをどのように愛し慈しんでくださるかが分かり希望が出てきます。今日の家庭集会でベック兄は「主イエスのよみがえり力」について話してくださいましたが、真の愛を持たなかった者マグダラのマリヤ、真の信頼を持たなかった者ペテロ、真の信仰を持たなかった者トマス、真の義を持たなかった者ヤコブがそれぞれ復活の主と出会ってどのように新しく造り変えられ、真の愛、真の信頼、真の信仰、真の義を持つにいたったか、それはすべて1コリント15:3~8のパウロも経験した「復活」の主との出会いによると話してくださいました。これら5人の人はいずれも心の真実、すなわち神様の前に隠しようのない自己の姿をとことん認めさせられたのです。そこからただ復活の主に出会ったことが新しい人生の出発となったのです。私たちもまたこのよみがえりの主に出会うことが出来るのです。上記の文章もその一端を示すものであります。ダビデその人がバテ・シェバとの姦淫の末、どのように主によって立ち直れたか、この詩篇51篇は心の深奥の悩み、そしてそこからの離脱がどのようにして主によって可能になったか、語ります。)

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