キリストの花嫁となられた方の葬儀式場の花、天国の花 |
あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。(新約聖書 ガラテヤ3:3)
皆さんはガラテヤ人への手紙が書こうとしていることのすべてを知り、二つの特徴的な言葉を知っています。(その二つとは)「自由」と「子たる身分」であります。「 キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」(ガラテヤ5:1)召使いでなく、また奴隷でもなく、子である身分であります。(神の)子であることの自由であります。それらは手紙の中での二つの重要な言葉であります。
けれども何がガラテヤでゆゆしきしばりとなっているのでしょうか。それらは伝統という、また律法主義というゆゆしきしばりであり、すべてそれに類似するものです。皆さん、あなたがたもご承知のとおり、これらのゆゆしき外装で動きがとれなくさせられるのは極めて容易いことなのであります。
キリスト教の全時代を通じてつきまとってきた危機はキリスト教自身を何かの機構に具体化し、固定化することにあります。皆さんは何らかの光、何らかの啓示、たくさんの真理のあるもの、それは真理の断片ではありますが、それらをお持ちであります。ところがそれを一つの体系として形成し始め、限界を設け、このことは人々が信じなければならない、この水準のところにまで来なければ駄目だ、このように振る舞わなければならないと言うようになるのに、そう時間はかからないのです。それが再びシステム化するということです。「あなたはこれこれをしなければならない・・・これこれをしてはいけない」そのことと旧約聖書が言う「汝はすべきである・・・汝はすべきでない」と言うこととの間に違いはないのであります。
キリスト教はその危機に陥ってきましたし、絶えずそうしてきているのです。それは大切な啓示を制限し、キリストをご自身がそうであるよりははるかに小さくし、真理を固定化し形式化するのです。「これがこれこれの方法である」と。そしてその言わんとすることは「これが根本的だ」ということであります。
今、皆さんに気をつけていただきたいことがあります。それは御霊が降臨したとき、すなわち使徒の働きが記録として残しているように、これらのユダヤ教の弟子たちが経験したことの一つがユダヤ教の縄目からの驚くべき解放であったということです。そして聖霊がどんな固定化された障壁も崩すはたらきを、いかになしたかということに注意していただきたいのです。
(今日の箇所は “Loose Him, and Let Him Go” の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003153.htmlです。敬愛するご婦人の葬儀に出席した。88歳のご生涯であった。月に一度は電話を寄越された。電話の内容はほとんどまだ主を信じていない方に福音を伝えたいがともに祈って欲しいという内容であった。ほぼ子どもの世代に当たる私たちだったが、「兄弟・姉妹」と呼んで下さり、こちらには決して年齢差を感じさせられなかった。これは普通の人間関係では考えられないことである。これもまた身近に体験させていただいた、御霊なる神様が働かれる結果でなかっただろうか。生涯、福音伝達の現役選手であった。かと言って若い時からのクリスチャンではなかった。外面的には恵まれた人生を送られていたが、人間が持つ内面的な魂の飢え渇き・葛藤をいかんともなしがたいことに気づかれ、60歳になられてからのクリスチャン人生であった。それゆえ、人々の救いに熱心であられた。まさしく「主を愛する」晩年のご生涯であった。E.M.バウンズと言う人の手紙に「私はニューヨークよりも天国に行きたいと思っています。天国のほうがずっとよいところです。」とある。また「神があなたを祝福して永遠のいのちに入れてくださるよう、またその日の早く来ることを、町に出て人々を無理にでも連れて来なさい。あなたの祈りによって、あなたの子どもたちを天国の入口まで運びなさい」とある。この敬愛するご婦人はまさしくそのとおり生きておられたように思う。)
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