中央線、車窓から天を仰ぐ |
私たちの祈りの生活は天的な基礎の上に位置していなければなりません。祈りの生活が地上の事柄のための祈りであるだけでは十分ではありません。朝起きて、数語口走り急いで主に祝福を求め、また私たちのものとその日の地上的な事柄がまるで生活のすべてであるかのように求めることは大変やさしいことです。でも祈りとはそうではないのです。もし主であったら、天的なこと、霊的なこと、一時的でなく永遠のこと、この世でなく、永遠に天的な目的につながる祈りをされたことでしょう。主なら、私たちを単なる一時的なことから切り離されることでしょう。主の前に人々を連れてくる場所があります。人々は天的なつながりのうちにあげられねばならず、自分自身で物事が処理されてはならないのです。主の血潮が万事を天的にし、古い創造から切り離すのです。私たちの祈りにはたくさんの古いものがあります。祈りは私たちの都合を求めるものであったり、不都合や不愉快から解放されることや、たくさんの悩みや悲しみから私たちを解放するものを求めるものです。それが私たちの多くの祈りの背後の動機であります。「主よ、今日どんな悪いことも起こりませんように、もしそうなら、私の人生はだめになってしまいますから」
けれども、主が悲しみをとおして全く新しい何ものかへと私たちを引き上げると仮定しますと、私たちはそのときその祈りをする用意がありますか。いいえ、しないはずです。私たちの祈りは「主よ、今日私は霊的な価値と関係する最大のものを求めます。もしそれが試みと困難な道によることであるなら、私はそこから解放されるように祈りません」私は申します。「主よ、私には耐え
抜く力があります。祈りによって私は日毎のその試練が意味する試みをくぐりぬけるその力を経験するようになるからです。」それが天的な祈りです。それが
あなたの天にある心からする祈りなのです。「もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。
あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。」(コロサイ3:1~3)「私たちの国籍は天にあります。」(訳注:ピリピ3:20)したがって、今や信ずる者のいのちはつねに天国が与える特権と一つになっており、それゆえ私たちの祈りの生活とはこのような特権とつながっているのです。
(今日の箇所は The Altar of Incense の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003384.htmlです。)
0 件のコメント:
コメントを投稿