2011年3月5日土曜日

啓示によって主イエス様に出会う

椿さん ピンクの笑みよ 惚れ惚れし 
私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。(新約聖書 ガラテヤ1:12)

私たちの中でこの世の力を味わった人々は、この世のことと宗教上のこととの結びつきがどうなのかを、人の性質に関して認識しています。そこには領域が違うだけで、性質が異なるのではないということがあります。この世の音楽や劇がある意味で生み出すもの、心をかきたてたり、鼓舞したり、懇願すること、すなわち情念、涙、軽蔑、憎悪、怒り、憂鬱、喜びなどは状況が異なるだけで全部同じであるということです。事実はこの世の生み出すものはなくなり、私たちは本当は遠くないのです。

少しのよりすぐれた音楽、説教者の交代、馴染みの場所でないこと、二三のよりすぐれた感動は多分私たちの魂を痛く刺激するでしょうが、結局私たちのいるところは(本来)どこなのでしょうか。サタンは仮面の裏でどんなにか笑っているに違いありません。ああ、真実を求めて、永遠の真実を求めておるわいと。

その人たちは、美や崇高なものの鋭い感覚を持つ高度な教養ある人が、この世に関して、(それを持ち合わせない)下品な人よりも非常にすぐれていても、そのようなものは、必ずしも神を個人的に生き生きと知る、すなわち神を人の子として知り、本当に新生しているという基準にはなりえないということを知ることでしょう。

私たちが「信仰復興」を求めて祈る時、私たちがあくまであとである(神様が第一)ということ、また私たちが推進し、動かすのにどんな手段を用いているかに関して注意したいものです。・・・使徒パウロは彼の生活と奉仕のすべての秘密が「啓示によって」福音を受けたという事実であったことを明確にしています。

私たちは聖書を一冊の本としてもっとも完全に知ることができるかもしれません。しかし霊的には死んでいて無価値であることがあり得るのです。聖書が神を知ることや永遠のいのちの基盤にある信仰について語り、その結果として自由を獲得し、恵みを得るなどする時、聖書はやはり人が探求することによって神を見いだすことは不可能であり、霊の知識であり、生まれながらの心による知識ではないということを大変明確にしております。

かくして豊かな聖書知識、キリスト教教理の正確で巧みな把握力、人の生まれながらの英知や能力によりクリスチャンの働きをなすこと、聖書の内容やテーマを巧みに興味を持つように提示することは少しも生来のいのちを越えるものでなく、依然として霊的に死んでいる状態にとどまっているのかもしれないのです。

人は議論を挑まれたり、理性で納得されたり、惹きつけられ、関心を持たせられ、「感情が高ぶらされ」たり、熱狂的になったりさせられて天の御国に入れられのではありません。ただ(新しく)生まれることだけが可能であり、それは霊的なよみがえりによるのです。

(今日の箇所はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003064.htmlですが、どうしても All Things in Christ - Chapter 10 の中には何度探しても見い出せませんでした。恐らくこのホームページ提供者の何らかの単純なミスだと思います。どなたかが気づいて直していただけるとありがたいです。なお本日の箇所は繰り返し読む必要のある箇所だと思います。それだけ一層この文章がどこに納められているか前後の文章を知りたいです。読者の中でその文章の原典を探してお知らせくださるとありがたいです。人間のすることですからこういうミスもあるのですね。一時はこれはこのような無駄な訳業はやめとけという合図かと思いました。ふりかえってすべての訳業が恥ずかしいばかりの誤訳の連続です。読者諸氏のご理解をお願いします。)

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