窓外に さんしゅゆ花 咲きほこり 愚かな者も あふれるを知る |
わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐ。(旧約聖書 マラキ3:10)
リバイバルを求めて大変多くの祈りがなされ、せきたてるような訴えがなされています。もし神の御霊が、キリスト教の体系を彩っているそんなにも多くのことがらを無視したり、超越し、まるでそんなことはほとんど価値がないかのようにするなら(事実、聖霊は神について大切なことに関して決して妥協しないのですが)御霊はすでに定着しているものの再考を求めているということを意味するのではないでしょうか。
再考をするのにはいくつかの道があります。たとえば、キリスト教徒が現実生活に近づき世的な生活を求めれば求めるほど、儀式のようなことがらがそれだけ多く幅をきかせてきました。儀式、典礼、祭服、式典、形式や外形的なものが、いつも霊的に低く貧しい状態の特徴でした。だから、それらが重要視されることは労せずしてその霊性の尺度になっているのです。
他方で深く強く純粋な霊的状態はつねに単純性によって特徴づけられており、上述のようなものがありません。歴史はこのことを疑いもなく証明していますし、御霊の流れが際立った証拠となっています。教会にもっとも大きな霊的活力・影響があった時代は教会の形式、建物、儀式がなく、主御自身が全てであった日々でありました。
霊性がより低くなった状態から脱出するためには私たちは神の御霊の力ある訪れを必要としています。このこと、このことだけがそれをなすのであります。ほとんどの人々はこのことに同意します。私たちはこの線に沿って言われて来たことをたくさんこれまで聞いて参りました。
つねに私たちを混乱させたものは、この種のことがらがこれほど繰り返し、強く言われたのに反して、言われたことが結果として実際に改革に進むほど十分な強さをもって印象づけられなかったようであります。だから他方で、もし私たちが、御霊が働き、何度も何度も御霊が(私たちの実行を)妨害する事態に深刻にも直面したのだとしたら、その道はもっと霊的生活を「恒久的」に高い水準に導き、満たし、価値あるものへと開かれていることなのではないでしょうか。
改革はリバイバルにとって本質的な部分ではないでしょうか。主はご自身が「天の窓を開かれる」前に一定の思い切った改革を求めておられないでしょうか。(マラキ3:10)
主が、ご自身を啓示により明らかにされ、また目的や方法を明らかにされた結果、キリストだけの立脚点に立ち、その満たしに導かれる人々が与えられました。しかし、たとえその時や、その場所がどうであっても、それらの人々は必ず大きな痛みを伴う犠牲に直面せざるを得ませんでした。通常、その犠牲を必要としたのはキリストにある彼ら自身の兄弟たちなのでありました。
組織化されたキリスト教にとって、機構や宣伝や組織化された働きのあらゆる枠組みなしに、果たして、価値あるどんなことでも実行できると信じることは、いかに難しいことでありましょうか。神の力ある、もっとも十分な働きは、その性質上もまた恵みにおいても、隠密裏に静かに控え目になされ、多くの場合、誰かが知る以前になされるかどうかを立ち止まってよく考えてみることは良くないことでしょうか。
春の季節が訪れるごとに自然のよみがえりについて私たちは一体何を学んでいると言えるのでありましょうか。神の最も高い働きの法則は生物的であり、いのちの法則なのであります。それは有機的であることを覚えたいものであります。
(今日の箇所は The Release of the Lord - Chapter 7 で原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003060.htmlです。大変訳するのに手間取りました。英語の専門家、また信仰の良き先輩の判断を是非仰ぎたいところです。 この文章全体は1929年に初版が出され、1970年までの数年間に書き加えられて行ったものです。7章は最後の章ですが、「クリスチャニティー」は一般のキリスト教徒を意味するのでなく福音的なクリスチャニティーをさしているのだと述べ、その特徴を3つあげて、いかにそれが御霊を悲しませるものかを指摘しています。考えさせられる内容です。興味ある方は直接原文をお読みください。折しも今日の火曜の学び会でベック兄は神の家が霊の家であることをみことば1ペテロ2:4~5に基づいて明らかにされ、その家を支配する掟は「いのち」と「霊性」であると言われました。有無相通ずるものを覚えました。今日は昨日よりはましですが空は曇天模様の日本です。でも確実に春は近づいています。)
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