沈黙を破り木蓮開きたり空に祈りの声あげるごと 後藤瑞義 |
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(新約聖書 マタイ11:28)
このことは何を意味していたのでしょうか。律法の重荷が人々の肩にありました。実にそれは人々にとって重いものでした。パリサイ人はモーセの律法に2000以上の解釈を施し、言いました。「モーセの律法は決して十戒だけを守って良いとしたのではない。2000(の規律を)守らねばならない」彼らの人間生活のあらゆる面でこの決まりが適用されない点は一つもなく、彼らの生活はそれゆえに困難を極めました。
そして、このすべては安息日に集中していたのです。「安息日には床を敷いてはいけない。安息日には床を移してもいけない。安息日には火をかきたててもいけない。安息日には何事もしてはいけない。三マイル以上歩くことさえいけない。」彼らの生活には2000の規則があったのです。彼らが毎日、特に安息日に交わる一つの標語は「あなたはこれこれのことをしてはいけない」ということでした。
(ヨハネ5:1~18で)一体何が起こったのでしょうか。イエス様は安息日はご自身のものであるとなさいました。(それは)安息日はもはや一週間のうちの一日でなく、またイエス様が神の人であること(を意味していました)。(もしセブンスデー・アドベンティストの方がその場に居合わせたら、彼らの全体系も5分間で没したことでしょう)
そうなのです。イエス様が神の安息なのです。イエス様は神様の御わざの目的であり、イエス様にあって神様は休息にお入りになったのです。これがヘブル4:9の「安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです」という意味です。安息日は一週間の中の一日でもあるいはカレンダー上の日でもなく、神の人、神の御子の日なのです。
イエス様にあって私たちは休息を得るのです。そして私たちの束縛であったものが今や私たちの召使いになったのです。常に闘いの対象であったものは今やイエス様にあって勝利に変わったのです。そうなんです。イエス様が安息日なのです。そしてもし私たちがイエス様にあって生活するなら、安息日は粗末にされないのです。私たちの魂にとって毎日が安息の日々であるのです。嗚呼、これは主イエス様がなしてくださった、何と力あるできごとでしょうか。
(今日の箇所は Discipleship In The School Of Christ - Chapter 5 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003102.htmlです。相変わらず余震が絶えない東日本です。しかし、冒頭のみことばは万古不易のみことばです。このお方に全てをおゆだねしたいです。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」ヨハネ13:7)
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