霧深きなかに聞ゆるうぐいすのいまだ初音と言えぬ鳴き声(後藤瑞義) |
すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。(新約聖書 エペソ3:18~19)
聖霊に支配されるいのちのしるしは、いのちそのものが絶えずキリストに占領され、時が経てば経つほどキリストがますます大きくなるということです。私たちのうちに聖霊が働かれると私たちの思いを越えてはるかはるか遠くにまで広がる大海原の海岸へと私たちは連れて行かれます。ああ、それは何というキリストの深さ、満たし(を経験すること)であることでしょうか。もし私たちがかつて人が生きた通り生きるなら、依然としてこの広大な満たしであるキリストのへりの上にいるに過ぎないでしょう。
さあ、このことは私たちにとって、これ以上進まないうちに直ちに挑戦になるにちがいありません。これらのことは単なる言葉でも、言葉のあやでもなく、真理そのものですから。 私たちは自分の胸に手を当てて問うてみましょう。私たちの場合このことは真実なのか。これは私たちが知っているいのちの種類にあたるのか。このことに絶望するようになっているか。
言い換えれば、私たちが、自らがくたびれており、自らの深みから脱出し、これからは決してほっつき回らないことをキリストによって知らされる程度に応じて一瞥してみることです。それは私たちをはるかに越えたことですが、一方私たちはそれに強く引き寄せられているのです。このことがあなたの経験において真実となっていますか。それが聖霊に支配されるいのちの特徴なのです。
キリストは私たちが(聖霊にしたがって)歩めば歩むほど益々偉大になります。よろしいですか。もしそれが真実なら、それがいのちの道なのです。もしあなたがたと私がわかったと思い、全部持ち、獲得し、そこから事態は停滞するようになったと思うところまで来るなら、私たちはそのことから聖霊が働からなくなり、いのちが役に立たなくなったとみなすでしょう。
一人の人を例に取り上げてみましょう。私は確信するのですが、人々の中で、この神様のお用いになる方法を全面的に示すのにふさわしい人は使徒パウロです。彼の言葉によると最初光に照らされた彼に起こったことを適切に表現したことは次の通りです。「神様は私に御子を啓示することを良しとされた」(ガラテヤ1:16)いいですか、その人は大変たくさんの人々に教えもし説教もしました。彼はたくさんのものを生み出しました。
長い、かなり充実した人生を送りました。それは彼が生み出したものの多さだけでなく、彼の真価をさぐる試みに打ち勝った集中的な特質にあります。その長い人生、その充実した人生の終わりに、最初 「神様は私に御子を啓示することを良しとされた」と言ったその人は心の底から「私がキリストを知ること」(ピリピ3:10)が願いだと叫んでいるのです。確かにその辺のことは次のように暗示されています。すぐれて先導的に示された啓示、それに次いで絶えず続いて明らかにされたこと、知られていることと比較するものが何もわからないと(言わしめた)、第三の天にまで引き上げられ、人の言葉で話せないことを示されたこと。
「私はキリストを知りたい。」それが聖霊によって支配されるいのちの特質であります。いのちは私たちを死から、停滞や停止から解放するものです。キリストの学校における御霊の働きは、キリストの偉大さをあらわし、このキリストを見続けることにあります。
(今日の箇所はいつも通り The School of Christ - Chapter 1 の抜粋引用訳です。直接にはhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003068.htmlですが、少し訳がわれながら強引なところがあります。なお後半の文章は原文の最後にあたる文章をさらに理解するため、数行訳を付け加えたものであります。写真は今朝庭に訪れたメジロ二羽を木陰?に隠れて撮影したものです。たまたま今日拝見した後藤さんの短歌は遠く伊豆の山中の鶯を通して心を歌われたもので、私の心に留まりました。無断で拝借させていただきました。お許しください。)
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