2011年3月14日月曜日

子であることの栄光

鳥は空を飛ぶ 昨日庭の「さんしゅゆ」を啄みにやって来たひよどり
父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになる。(新約聖書 ヨハネ5:20)

神様と完全に一つとなっている人々だけが神を代理できるのです。たとえ私たちが、自らをどのように呼ぼうとも、また主のためになす働きがどのように偉大であろうとも神様はそのことを考慮なさいません。神様のところに来て次のように言ったとしても役に立ちません。

「主よ。あなたは私がこの働きに従事していることをご存知でしょう。だから私はあなたに助けてもらいたいのです」その言い分は神様が彼を助けねばならない理由にはなりません。神様は心から交わりを持っている神の子どもたちを助け、その彼らの働きだけを助けられるのです。「公式」にはその立場にない人であっても、公式に宣教師やその地位にあるたくさんの人々よりも主にとってはるかに有用なのであります。

重要なことは、私たちの霊的な知識や公的に人が承認した宣教ではなく、私たちが神様と隠れたところで交わりを持っているかどうかということであります。神様は私たちをご自身に仕えるのにふさわしく霊的に整え、仕事でなく子であることを支持してくださるのです。もし私たちが神様との交わりに気を配っているなら、神様は私たちのその立場を見られます。

神様はイスラエルを神の初子と呼ばれ、子であるゆえにイスラエル人を助けられました。従ってイスラエルは諸国民の間にあって重要な立場を占めることができました。イスラエルは地にあって神の証のために選ばれた器であったのです。けれども初子として神とともに進めなくなる時がやってきました。神様との心からする交わりが、単なる表面的な形のものになり、その結果、神様が神の民から引き出し、捕囚に送り込まなければならなくなったからです。

イスラエルが主に向かって、「なぜあなたは私たちをこんなふうにあつかわれるのですか」とか「私たちは諸国民の中であなたを代表する者でなかったのですか」という不平を言ったので、無用になったのでしょう。それに対して神様のお答えは「公的な立場はわたしにとって何の関係もありません。わたしはあなたがわたしとの持つ関係が正しくない限り、またあなたが子としての立場を重要視していない限り、あなたを助けることができません」というものであったでしょう。

あなたは神の子である私たちの立場や召しは子であることと関係があることがわかるでしょう。 主イエス様はまさしくその理由ゆえに子であることを強調されるのです。主イエス様は父は御子がこの地上で実現するために来た宣教を愛されるとは決して言われませんでした。けれども「父は子を愛された」と言われました。地位と召しは子であることの上に基礎づけられておらねばならないのです。子たることを抜きにしては、地位も召しも神の前には何の価値もないのです。

(今日は Christ Our All - Chapter 9 の抜粋引用訳です。)

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